雨宿り
「随分降ってきてしまいましたね」
突然降って来た雨を避けるために飛び込んだのは、町外れにある古びた煉瓦造りの建物だった。
絡まった蔦のおかげで崩れるのが辛うじて防がれているような、廃墟と言ってもおかしく無いもの。昔、このあたりに集落があった名残なのだろう。
「さっきまであんなに晴れてたのにねぇ」
扉の無くなってしまった、ただ四角く開いているだけの窓から空を見上げている人を建物の奥へと促す。灯りの無い建物の中はこの天気のせいでもう既に薄暗いが、窓際にいるよりは濡れることも無い。
「通り雨でしょう。しばらく待てば止むはずです」
そう言ってはみたものの、厚く垂れこめた雨雲から降り注ぐ雨は当分止みそうにない。
視察帰りに足を伸ばしたのを悔やむ。雨にあたったからと言って服が汚れて困るなどという心配はしないが、走って帰るには距離があり過ぎる。
「大丈夫ですか?あなたは濡れると弱いから」
「そんなにヤワじゃないよ」
ポケットの中で濡れずに残っていたハンカチを出すと、濡れ羽色に染まってしまった髪の水気を拭く。かすった頬が冷たい。
建物の最奥には何かの像が立っていた。
汚れてほとんど光を通すこともなくなったステンドグラスを背後に従えるようにして、これまた黒くくすんでしまったまま立っている、何かに手を差し伸べているような姿の女性。
「・・・ここは何でしょう?」
目を凝らしてよく見ると、左右の壁の上のほうにもずっとステンドグラスが埋め込まれている。正面にあるのは大輪の薔薇を模したもののようだが、こちらはわすれな草のような・・・色も形も簡単なつくりの花だ。ちゃんと光を通せば色とりどりの光が入ってくるのだろう。
並んだ椅子は朽ちてしまって形を留めてはいない。仕方なしに像の台座にその人を座らせ、隣に腰掛ける。服越しだというのに冷えきった身体の冷たさが伝わってくる。
「教会、だね」
隣の人は自分の肩に頭をもたせかけたまま呟く。
「じゃあ、あれは聖女ですか」
そうか、これが教会なのか。
人間たちの間で信仰が深い「聖女」という存在がいることは知っていたが、実物を見るのは初めてだった。神や聖女などといった信仰の対象を、自分たちのような魔族は持たない。信じるのはただ自分と、自分が認めた仲間のみ。どこに存在しているかも知れない信仰の対象など持ったところで何の意味があると言うのだろう。
「何だか、不思議な像ですね」
「そう?」
「普通祈りの対象の像は、それ自身も祈っているような形をしているものですが」
少し開いた口からは今にも何か聞こえてきそうだ。
彼女は何を見て、何を語りかけようとしているのだろう。
「そう、だね・・・何かいわれでもあるのかもしれない」
隣に座っている人の声をぼんやりと聞きながら像を見上げる。
過去、この像にどれだけの人が祈りを捧げて来たのだろう。心の拠り所であったはずのこの像は、何故集落が失われる時に置き去りにされていったのだろう。
自分なら・・・拠り所を捨て置いて行くなど思いもつかないのだが。おとなしく自分にもたれかかっている人の髪を肩越しに見る。
゜・*:.*.:・゜.:*・゜*
「なぁ」
どのくらいこうして座っていたのだろう。雨音を聞きながらぼんやりと外を見上げていると隣の人が声をかけて来た。
「俺のこと食っていいからなー」
「は!?」
思わず声が裏返った。窓の外で光った雷が、一瞬、その人の姿を浮かび上がらせる。
・・・何!?
身を起して隣の人をまじまじと見つめた。薄暗がりの中で、その人はいつもの何を考えているかわからない、ただ優しい笑みを浮かべて自分を見上げている。
食べる?
食べるって?
―――誘ってるんですか?
「美味いんだろ?俺」
そりゃあ美味しいでしょう。
その柔らかそうな唇も、いい匂いがする髪も、どれもあなたを不味いとは語らない。
心臓の鳴る音が聞こえてしまいそうで慌てて口を抑える。
「あ、肉とかは勘弁してくれよ。さすがに蜥蜴みたいに再生したりはできないから。せめて血とか、な」
余程物欲しそうな顔をしてしまったのだろうか、少したじろいだその人が苦笑いを浮かべる。
・・・なんだ。
食べるって本当にそっちの意味か。
そう言えばこの人は人間の血も流れているんだった。以前、その傷口を舐めてその甘さに驚いたことがある。
魔族にとって何よりの御馳走は人間の血肉だ。そのとろりとした甘美な甘さは一度口にしたら忘れることはできない。
「・・・別の意味で食べてしまっていいのかと思いましたよ・・・」
「何?」
気恥ずかしさで目を逸らす。いったい何を想像してるんだ、自分は。
そう、場所が悪い。
他に誰もいない、誰も新たに現れることもないこんな場所で。
そのシチュエーションで食べていいなどと言われたら・・・でも。
簡単に睦事を連想してしまった自分が情けない。発情期でもあるまいし。
「そんな心配は不要です!」
「あれ?何怒ってんの?」
「怒ってなどいませんよ!」
この人の誤解を招く言い回しも悪いのだろうが、色事につなげて考えてしまう自分も悪い。そんな自分にただ腹が立つ。
大きく溜息をつくと俯いたまま頭を抱えた。
こんな顔を見せるわけにはいかない。
「忙しかったから昼もちゃんと食べてないだろ?腹減ると気が短くなるって言うもんなぁ」
俯いて黙り込んでしまった自分を本当に空腹のせいだとでも思ったのか、その人はぽんぽんと頭を叩く。
頭に乗せられた手の優しい重みが辛い。
本当に食べていいんだよ、などと囁かれてはもうどうしようも無くなる。
やめて下さい本当に。この人の無邪気さは時に酷い拷問になる。
突然降って来た雨を避けるために飛び込んだのは、町外れにある古びた煉瓦造りの建物だった。
絡まった蔦のおかげで崩れるのが辛うじて防がれているような、廃墟と言ってもおかしく無いもの。昔、このあたりに集落があった名残なのだろう。
「さっきまであんなに晴れてたのにねぇ」
扉の無くなってしまった、ただ四角く開いているだけの窓から空を見上げている人を建物の奥へと促す。灯りの無い建物の中はこの天気のせいでもう既に薄暗いが、窓際にいるよりは濡れることも無い。
「通り雨でしょう。しばらく待てば止むはずです」
そう言ってはみたものの、厚く垂れこめた雨雲から降り注ぐ雨は当分止みそうにない。
視察帰りに足を伸ばしたのを悔やむ。雨にあたったからと言って服が汚れて困るなどという心配はしないが、走って帰るには距離があり過ぎる。
「大丈夫ですか?あなたは濡れると弱いから」
「そんなにヤワじゃないよ」
ポケットの中で濡れずに残っていたハンカチを出すと、濡れ羽色に染まってしまった髪の水気を拭く。かすった頬が冷たい。
建物の最奥には何かの像が立っていた。
汚れてほとんど光を通すこともなくなったステンドグラスを背後に従えるようにして、これまた黒くくすんでしまったまま立っている、何かに手を差し伸べているような姿の女性。
「・・・ここは何でしょう?」
目を凝らしてよく見ると、左右の壁の上のほうにもずっとステンドグラスが埋め込まれている。正面にあるのは大輪の薔薇を模したもののようだが、こちらはわすれな草のような・・・色も形も簡単なつくりの花だ。ちゃんと光を通せば色とりどりの光が入ってくるのだろう。
並んだ椅子は朽ちてしまって形を留めてはいない。仕方なしに像の台座にその人を座らせ、隣に腰掛ける。服越しだというのに冷えきった身体の冷たさが伝わってくる。
「教会、だね」
隣の人は自分の肩に頭をもたせかけたまま呟く。
「じゃあ、あれは聖女ですか」
そうか、これが教会なのか。
人間たちの間で信仰が深い「聖女」という存在がいることは知っていたが、実物を見るのは初めてだった。神や聖女などといった信仰の対象を、自分たちのような魔族は持たない。信じるのはただ自分と、自分が認めた仲間のみ。どこに存在しているかも知れない信仰の対象など持ったところで何の意味があると言うのだろう。
「何だか、不思議な像ですね」
「そう?」
「普通祈りの対象の像は、それ自身も祈っているような形をしているものですが」
少し開いた口からは今にも何か聞こえてきそうだ。
彼女は何を見て、何を語りかけようとしているのだろう。
「そう、だね・・・何かいわれでもあるのかもしれない」
隣に座っている人の声をぼんやりと聞きながら像を見上げる。
過去、この像にどれだけの人が祈りを捧げて来たのだろう。心の拠り所であったはずのこの像は、何故集落が失われる時に置き去りにされていったのだろう。
自分なら・・・拠り所を捨て置いて行くなど思いもつかないのだが。おとなしく自分にもたれかかっている人の髪を肩越しに見る。
゜・*:.*.:・゜.:*・゜*
「なぁ」
どのくらいこうして座っていたのだろう。雨音を聞きながらぼんやりと外を見上げていると隣の人が声をかけて来た。
「俺のこと食っていいからなー」
「は!?」
思わず声が裏返った。窓の外で光った雷が、一瞬、その人の姿を浮かび上がらせる。
・・・何!?
身を起して隣の人をまじまじと見つめた。薄暗がりの中で、その人はいつもの何を考えているかわからない、ただ優しい笑みを浮かべて自分を見上げている。
食べる?
食べるって?
―――誘ってるんですか?
「美味いんだろ?俺」
そりゃあ美味しいでしょう。
その柔らかそうな唇も、いい匂いがする髪も、どれもあなたを不味いとは語らない。
心臓の鳴る音が聞こえてしまいそうで慌てて口を抑える。
「あ、肉とかは勘弁してくれよ。さすがに蜥蜴みたいに再生したりはできないから。せめて血とか、な」
余程物欲しそうな顔をしてしまったのだろうか、少したじろいだその人が苦笑いを浮かべる。
・・・なんだ。
食べるって本当にそっちの意味か。
そう言えばこの人は人間の血も流れているんだった。以前、その傷口を舐めてその甘さに驚いたことがある。
魔族にとって何よりの御馳走は人間の血肉だ。そのとろりとした甘美な甘さは一度口にしたら忘れることはできない。
「・・・別の意味で食べてしまっていいのかと思いましたよ・・・」
「何?」
気恥ずかしさで目を逸らす。いったい何を想像してるんだ、自分は。
そう、場所が悪い。
他に誰もいない、誰も新たに現れることもないこんな場所で。
そのシチュエーションで食べていいなどと言われたら・・・でも。
簡単に睦事を連想してしまった自分が情けない。発情期でもあるまいし。
「そんな心配は不要です!」
「あれ?何怒ってんの?」
「怒ってなどいませんよ!」
この人の誤解を招く言い回しも悪いのだろうが、色事につなげて考えてしまう自分も悪い。そんな自分にただ腹が立つ。
大きく溜息をつくと俯いたまま頭を抱えた。
こんな顔を見せるわけにはいかない。
「忙しかったから昼もちゃんと食べてないだろ?腹減ると気が短くなるって言うもんなぁ」
俯いて黙り込んでしまった自分を本当に空腹のせいだとでも思ったのか、その人はぽんぽんと頭を叩く。
頭に乗せられた手の優しい重みが辛い。
本当に食べていいんだよ、などと囁かれてはもうどうしようも無くなる。
やめて下さい本当に。この人の無邪気さは時に酷い拷問になる。