畏友の離婚
離婚は俺から切り出したことで、妻としてみれば青天の霹靂だったと思う。それについても、妻にはもちろん申し訳なく思っているが、俺としてもたんなる気まぐれでなく、それなりの理由があって決断したことだ。その訳を、生涯の友と頼むみんなにだけは知って欲しくて、今、このメールを書いている。言い訳じみたことを書くかもしれしれないが、最後まで我慢して読んでもらえるだろうか。
俺はこれまで、父親は俺が物心つく前に死んだと聞かされてきた。しかしそれが事実ではなかったことを、婚姻の手続きを進める中で知った。父と母は死別ではなく離婚していた。もっともそれだけだったら大したことはなかった。俺が衝撃を受けたのは、俺が離婚の二年後に生まれたこと、つまり、俺には未知の父親がいるということだった。
俺は、母親に本当の父親はどんな男だったのか教えて欲しいと迫った。それがたとえ離婚したあとに出会った男でもいい、崩れかけた自分の過去をなんとか再構築しようとしていた。しかし、母親は俺の父親の名前を知らないのだという。つまり「ゆきずり」の相手だったのかとさらに聞くと、「違う」という返事のあとに続けた母の言葉は。俺の想像の範疇を超えていた。
AIDという言葉を聞いたことがあるだろうか。「Artificial Insemination with Donor」の略称だ。日本語で「提供精子による非配偶者間人工授精」というらしい。らしい、というのは、俺にしたところでこの言葉を知ったのは今回のことがあってからのことだからだ。
つまり俺は、母親でさえ顔を見たことがないどこかの男の子供だった。
それを聞いたとき俺は、自分のことをどこかの若い男の精液のなれの果てなんだ、と思った。もちろん「精子バンク」には提供者のスペックが貼り付けられている。それが需要と供給の狭間で売り買いされる「商品」である以上、価格とスペックの提示があることは当然のことだ。この「商品」の場合、性質上、提供者のスペックが品質を担保するという仕組みにひとまずはなっている。
俺の「父親」は、「東大経済学部を卒業してさる中央官庁に勤務する23歳の男」だった。しかし、そんな些末なスペックが「男」のいったい何を表しているというのだろうか。どんな風貌をしているのか、どんな声でしゃべるのか、どんな表情で笑うのか、どんな趣味の持ち主なのか、どんな生まれ育ちなのか、友達は多いのか少ないのか、そして今どこで何をしているのか・・。そういった、人間として本質的なことは何一つわからないのだ。
まあすくなくとも、お勉強は出来た男だったのだろう。そう考えれば、俺が自ら誇りにしてきた勤勉さも、母親があらかじめ仕組んだことのように思えてくる。
自分がこういう立場に置かれてみると、巷間かまびすしい「自分とは何か」といった哲学的な問いが、一種の知的遊戯にしか見えなくなる。俺にとってその言葉はきわめて切実な肉体的実感を伴った厳しい問いかけになった。自分の誕生に、男女の情愛が前提になっていない事実が、俺に与えたダメージも大きいものだった。
それ以来、自分の体の半分が真っ暗な虚無の闇に占められてしまったようなイメージが、俺に取りついて離れなくなった。
ただ、俺には母親を責める気持ちはない。なぜなら、母親の人生の選択がなければ、自分はそもそも存在しないからだ。母親を責めることは、「俺を殺してくれ」と懇願するに等しいではないか。俺はこのむしろこの宿命的な虚無を、生の充実でうずめようと決心した。もっとも、その決心に至るまで迂路はあったのだけれど・・。
しかし、結婚となると話は別だ。俺はこの空虚が、のちのちまで引き継がれてはならないと思った。いや、引き継がれることを怖がったといった方が正確だと思う。得体の知れない俺という父親から産まれた子供が、さらに得体を知れない子を産んでいく・・そんな暗い連鎖のみなもとに自分がなることは耐えられなかった。俺が離婚を決意した理由は、ただこの一点にある。
俺だって木石ではない。隣でしずかな寝息をたてている妻の横でまんじりともせずにいるとき、俺は正直気が狂いそうなほどだった。しかし、このまま夫婦であり続けるのか、離婚するかを決めるまでは、彼女には一指も触れてはならないと・・・
結城は島村のメールを最後まで読むとメーラーを閉じ、パソコンの電源を落とした。椅子から立ち上がって背広を脱ぎ、ネクタイをとりかけたところで、彼は後ろに妻が立っていることに気がついた。
振り向いた結城に向かって、パジャマ姿の妻は「おかえり」と言い、にっこり笑った。妻の姿を見た結城は、自分の中から何かが突き上げてくるような衝動を感じた。それは今まで彼が感じたことがないような激しい衝動だった。
彼は妻に駆け寄ると、彼女の肩をがっしりつかんで強く唇を合わせた。驚いた妻は、結城から唇を外して言った。
「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」
結城はそれに答えず、再び妻に唇を合わせた。結城は、細身の妻の背中を折れんばかりの強さで抱きしめた。彼は、目を閉じて静かになった妻の上着の裾から右手を差し入れ、下着をつけていない彼女の左の乳房を握った。彼の性器はすでに猛々しくかたちを変えていた。妻は自分の臍のあたりにその脈動を感じながら、かすれた声で「どうしたの、いったい」と言った。
「愛しているんだ」
「・・・・」
「君は」
「愛してる。とても深く」
「君を抱きたいんだ」
「うん、好きなだけ抱いて。あたしたち夫婦でしょ」
服と下着を取り去って、一糸まとわぬ姿になった結城と妻は、ベッドの中央で身じろぎせずお互いを抱きしめ合っていた。
結城の性器は先端までかつてなかったほど膨れあがり、妻の性器からは熱い液体が溢れ出ていた。それは太ももをつたって、シーツの色を変えていた。
「あたし、きょうはどうしちゃったんだろう・・」妻の声が震えていた。
「きょうは、このままで一つになりたい」
「え?」
「子供が欲しいんだ」
「で、でも、あたしたち、お互いの仕事の目鼻がつくまで、当分の間、赤ちゃんはつくらないようにしようって・・」
「不完全さを恐れてはいけないし、それに男と女が愛し合って子供が生まれるのは、けっして当たり前のことじゃないんだ」
結城は体を起こしながらそうつぶやくと、妻のほっそりした両足を大きく開いて性器をじわじわと根元まで挿し入れた。肉が肉をおしわけていく軋みを自らに感じながら、結城はさらに何ごとかを妻に語りかけたが、すでに意識が遠のいていた彼女には、その声が届くことはなかった。
作品名:畏友の離婚 作家名:DeerHunter