畏友の離婚
畏友の離婚
結城敏一は、今日の帰宅時間を問う妻からのメールに短い返事をすると、携帯電話をカバンの中に仕舞い、再びパソコンの画面に向かった。
結城は、しばらくの間、ディスプレイに映った色とりどりの折れ線グラフや、数字がひしめいている表組を眺めていた。それらは何かを雄弁に語っているようにも、何も語っていないようにも見えた。
「結城、どうだ。そろそろ出来たか」直属の上司である課長が後ろから声をかけてきた。
「いえ、少し手こずっています」
「ふーん、おまえ入社何年目だっけ」
「今年で7年目になります」
「だったらそのぐらいのレポートは2、3時間で片づけられないと、先行き厳しいぞ」
「はあ・・」生返事をしながら、イスに座ったまま振り向いた結城に向かって、課長は笑いながら言った。
「おまえにアナリスト・レポートを書くコツを教えてやろう。これは俺がおまえぐらいの年格好のときに先輩に教わって、それ以来実践し続けているやり方だ」
「・・・・」
「レポートを書くコツはな、拙くてもいいから一気呵成に最後まで書き上げて、とにかく形にしてしまうことだ。そのあと、それを読み返しながら、何度でも書き直すんだ。データというのは、時間をかけて睨んだところで何を語ってくれるわけでもない。初見でデータの本質は直観的に九割がた掴んでいるもので、そのあといくら眺めても、ほとんどの時間は無駄なんだ。あとは、文章を書き直すプロセスで、自分が直観的に掴みとったものを明らかにしていくんだ。言葉をどんどん付け加え、どんどん削り取っていく。そのうちに、過不足のないレポートが姿をあらわす。そしたらめでたく一丁上がり、というわけだ。どうだ簡単だろ?」
上司は結城の顔をのぞき込みながら、さらに言った。
「初めから完全なものを作ろうとするな。不完全さを恐れちゃだめだ」
「一度どこかでお会いできませんか」
その日の昼休み、結城の携帯電話に聞き覚えがない女の声が静かに響いた。女は、学生時代の友人である島村の妻と名乗った。島村の妻とは彼らの結婚式の二次会で挨拶を交わした程度の関係だったから、結城はすくなからず驚いた。
「ご用件はなんですか」
妻を名乗る女性が黙りこんだので、結城はさらに言葉を継いだ。
「とくに用もないのに、外で自分の妻が他の男と会っていたら、島村だっていい気持ちはしないでしょう」
「さきほどは島村の妻ともうしましたが、正確に言いますともう妻ではないんです」
しばらく沈黙が流れたあと、結城が口を開いた。
「どういうことですか」
「昨日、離婚届を出したんです」
結城が言葉を継ぎあぐねていると、女の方が口を開いた。
「ご心配はおよびません。大変失礼ですが、わたしは結城さんをよく存じ上げませんので、お近づきになりたいとかそういうんじゃないです。島村さんのことで、お友達である結城さんに、是非ともおうかがいしたいことがあるんです」
結局、その日の午後三時に、島村の「妻」と結城は恵比寿の喫茶店で待ち合わせることにした。ひるひなかに会うことにしたのは、結城からの提案だった。「妻」からの質問に答えるだけなら、仕事が終わったあとより昼間の方がいいような気が彼にはしたからだった。
十分前に約束の喫茶店に着いた結城は、注文したアメリカンコーヒーを一口すすりながら、頭の中で島村の妻の顔を思いだそうとした。
結城と島村は、七年前に世間で超一流と目される国立大学を卒業した同期生だった。学部こそ違ったが、同じ体育会剣道部に所属し、理不尽な階級的圧力にも非科学的なトレーニングにも共に耐えた仲だった。
島村は、下級生の時に「現代の日本に、しかも日本を代表するような大学に、こんな馬鹿げた階級社会があるのが信じられない。俺が幹部になったら、この因襲を根こそぎ変えてやる」と、眉目秀麗な面立ちをゆがませながら、結城に憤懣やるかたない調子で、熱く語るのが常だった。
果たして島村は、衆目が一致する正義感と頭脳の切れとリーダーシップで三年生の秋に主将に選ばれると、戦前から巣くっていた大学体育会特有の理不尽な集団文化を根こそぎ変えてしまった。これはなかなかできることではなかったから、結城たち同期の幹部は舌を巻き、下級生は島村を深く尊敬した。
「組織というのは情念が渦巻く人間の集合体である以上、理不尽な文化に取りつかれる罠にいつも直面している。その不合理な文化という、いわば歯石のような邪魔モノは、合理性というドリルでこまめこまめに削り落とさなくてはならない。そうしないと、組織は闘うチームとして機能しないんだ」島村は周囲にこう語っていた。
剣道部は、島村と結城の代になり、全日本学生大会の団体戦で準決勝に進出するという空前の成果を挙げた。スポーツ推薦で入学した部員がいない大学、しかも国立の超一流大学が挙げた戦績としては瞠目すべきもので、ある全国紙などは翌日の朝刊の社会面で取り上げたほどだった。
大学を卒業すると、島村は総合商社に、結城は証券会社に就職した。成績もトップクラスだった島村は、中央官庁からの受験の誘いもあったようだが、彼はそれらをすべて断って、民間企業に就職した。
幼い頃父親を亡くして以来降母子家庭で育った島村は、母親の長年の苦労に報いるために若くして高給が望める商社への道を選んだのだった。そして、入社から六年目に島村は結婚した。結城と島村は今年で共に三十歳になるので、島村の結婚生活は一年ほどで破れたことになるのだった。
「それにしても、あの島村が離婚とは」
結城は信じられない思いだった。申し分のない人格を持ち、順風満帆な人生を歩んできたように見える島村に、離婚という人生の躓きは、ひどく似つかわしくないものに思えた。
それにしても島村の元妻だった女は、自分からいったい島村の何を聞き出そうとしているのだろうか。自分に答えられるとすれば、島村の男としての、人間としての完璧性だけだというのに。
扉の鐘が鳴り、ひとりの女性が喫茶店に入ってきた。結城は顔を上げてその女性の方を見た。一年前に結婚式の二次会で会った花嫁がそこにいた。女の方も結城の存在に気づいたらしく、すぐにその場で軽く頭を下げた。結城が笑みを作りながら会釈を返すと、彼女は安心した表情になり、かすかな靴音をたてながら近づいてきた。
女は薄いベージュのブラウスに、胸元を覆う長いネックレスをかけ、濃いグレーの膝丈のスカートに低いヒールを履いていた。地味な装いの上、やや硬い表情だったが、切れ長の二重の目と高くはないが整った鼻梁を持つ、個性的な気品を湛えた顔だちだった。
かつて見たときはさほど美しい女性だとは見えなかった記憶が結城にはあった。入念な化粧はかえって美を損なう作用があるのだろうか、それとも時間が何かを研ぎ澄ましたのだろうか、結城は彼女がこちらに歩いてくる間に、そんなことを考えた。
女は、初対面の挨拶をして結城の正面に腰をおろすと、近づいてきたウエイターに「ホットのダージリン・ティー。レモンもミルクも要りません」と言った。それから結城の方に向き直り、「きょうはお忙しいところ、お出ましいただいて、本当に申し訳ありません」と、頭を下げた。
結城敏一は、今日の帰宅時間を問う妻からのメールに短い返事をすると、携帯電話をカバンの中に仕舞い、再びパソコンの画面に向かった。
結城は、しばらくの間、ディスプレイに映った色とりどりの折れ線グラフや、数字がひしめいている表組を眺めていた。それらは何かを雄弁に語っているようにも、何も語っていないようにも見えた。
「結城、どうだ。そろそろ出来たか」直属の上司である課長が後ろから声をかけてきた。
「いえ、少し手こずっています」
「ふーん、おまえ入社何年目だっけ」
「今年で7年目になります」
「だったらそのぐらいのレポートは2、3時間で片づけられないと、先行き厳しいぞ」
「はあ・・」生返事をしながら、イスに座ったまま振り向いた結城に向かって、課長は笑いながら言った。
「おまえにアナリスト・レポートを書くコツを教えてやろう。これは俺がおまえぐらいの年格好のときに先輩に教わって、それ以来実践し続けているやり方だ」
「・・・・」
「レポートを書くコツはな、拙くてもいいから一気呵成に最後まで書き上げて、とにかく形にしてしまうことだ。そのあと、それを読み返しながら、何度でも書き直すんだ。データというのは、時間をかけて睨んだところで何を語ってくれるわけでもない。初見でデータの本質は直観的に九割がた掴んでいるもので、そのあといくら眺めても、ほとんどの時間は無駄なんだ。あとは、文章を書き直すプロセスで、自分が直観的に掴みとったものを明らかにしていくんだ。言葉をどんどん付け加え、どんどん削り取っていく。そのうちに、過不足のないレポートが姿をあらわす。そしたらめでたく一丁上がり、というわけだ。どうだ簡単だろ?」
上司は結城の顔をのぞき込みながら、さらに言った。
「初めから完全なものを作ろうとするな。不完全さを恐れちゃだめだ」
「一度どこかでお会いできませんか」
その日の昼休み、結城の携帯電話に聞き覚えがない女の声が静かに響いた。女は、学生時代の友人である島村の妻と名乗った。島村の妻とは彼らの結婚式の二次会で挨拶を交わした程度の関係だったから、結城はすくなからず驚いた。
「ご用件はなんですか」
妻を名乗る女性が黙りこんだので、結城はさらに言葉を継いだ。
「とくに用もないのに、外で自分の妻が他の男と会っていたら、島村だっていい気持ちはしないでしょう」
「さきほどは島村の妻ともうしましたが、正確に言いますともう妻ではないんです」
しばらく沈黙が流れたあと、結城が口を開いた。
「どういうことですか」
「昨日、離婚届を出したんです」
結城が言葉を継ぎあぐねていると、女の方が口を開いた。
「ご心配はおよびません。大変失礼ですが、わたしは結城さんをよく存じ上げませんので、お近づきになりたいとかそういうんじゃないです。島村さんのことで、お友達である結城さんに、是非ともおうかがいしたいことがあるんです」
結局、その日の午後三時に、島村の「妻」と結城は恵比寿の喫茶店で待ち合わせることにした。ひるひなかに会うことにしたのは、結城からの提案だった。「妻」からの質問に答えるだけなら、仕事が終わったあとより昼間の方がいいような気が彼にはしたからだった。
十分前に約束の喫茶店に着いた結城は、注文したアメリカンコーヒーを一口すすりながら、頭の中で島村の妻の顔を思いだそうとした。
結城と島村は、七年前に世間で超一流と目される国立大学を卒業した同期生だった。学部こそ違ったが、同じ体育会剣道部に所属し、理不尽な階級的圧力にも非科学的なトレーニングにも共に耐えた仲だった。
島村は、下級生の時に「現代の日本に、しかも日本を代表するような大学に、こんな馬鹿げた階級社会があるのが信じられない。俺が幹部になったら、この因襲を根こそぎ変えてやる」と、眉目秀麗な面立ちをゆがませながら、結城に憤懣やるかたない調子で、熱く語るのが常だった。
果たして島村は、衆目が一致する正義感と頭脳の切れとリーダーシップで三年生の秋に主将に選ばれると、戦前から巣くっていた大学体育会特有の理不尽な集団文化を根こそぎ変えてしまった。これはなかなかできることではなかったから、結城たち同期の幹部は舌を巻き、下級生は島村を深く尊敬した。
「組織というのは情念が渦巻く人間の集合体である以上、理不尽な文化に取りつかれる罠にいつも直面している。その不合理な文化という、いわば歯石のような邪魔モノは、合理性というドリルでこまめこまめに削り落とさなくてはならない。そうしないと、組織は闘うチームとして機能しないんだ」島村は周囲にこう語っていた。
剣道部は、島村と結城の代になり、全日本学生大会の団体戦で準決勝に進出するという空前の成果を挙げた。スポーツ推薦で入学した部員がいない大学、しかも国立の超一流大学が挙げた戦績としては瞠目すべきもので、ある全国紙などは翌日の朝刊の社会面で取り上げたほどだった。
大学を卒業すると、島村は総合商社に、結城は証券会社に就職した。成績もトップクラスだった島村は、中央官庁からの受験の誘いもあったようだが、彼はそれらをすべて断って、民間企業に就職した。
幼い頃父親を亡くして以来降母子家庭で育った島村は、母親の長年の苦労に報いるために若くして高給が望める商社への道を選んだのだった。そして、入社から六年目に島村は結婚した。結城と島村は今年で共に三十歳になるので、島村の結婚生活は一年ほどで破れたことになるのだった。
「それにしても、あの島村が離婚とは」
結城は信じられない思いだった。申し分のない人格を持ち、順風満帆な人生を歩んできたように見える島村に、離婚という人生の躓きは、ひどく似つかわしくないものに思えた。
それにしても島村の元妻だった女は、自分からいったい島村の何を聞き出そうとしているのだろうか。自分に答えられるとすれば、島村の男としての、人間としての完璧性だけだというのに。
扉の鐘が鳴り、ひとりの女性が喫茶店に入ってきた。結城は顔を上げてその女性の方を見た。一年前に結婚式の二次会で会った花嫁がそこにいた。女の方も結城の存在に気づいたらしく、すぐにその場で軽く頭を下げた。結城が笑みを作りながら会釈を返すと、彼女は安心した表情になり、かすかな靴音をたてながら近づいてきた。
女は薄いベージュのブラウスに、胸元を覆う長いネックレスをかけ、濃いグレーの膝丈のスカートに低いヒールを履いていた。地味な装いの上、やや硬い表情だったが、切れ長の二重の目と高くはないが整った鼻梁を持つ、個性的な気品を湛えた顔だちだった。
かつて見たときはさほど美しい女性だとは見えなかった記憶が結城にはあった。入念な化粧はかえって美を損なう作用があるのだろうか、それとも時間が何かを研ぎ澄ましたのだろうか、結城は彼女がこちらに歩いてくる間に、そんなことを考えた。
女は、初対面の挨拶をして結城の正面に腰をおろすと、近づいてきたウエイターに「ホットのダージリン・ティー。レモンもミルクも要りません」と言った。それから結城の方に向き直り、「きょうはお忙しいところ、お出ましいただいて、本当に申し訳ありません」と、頭を下げた。
作品名:畏友の離婚 作家名:DeerHunter