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松橋オリザ
松橋オリザ
novelistID. 31570
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立ち読み版 君を守らせて下さい

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君を守らせて下さい

 ここは東京都西部にある小学校。今、劇団「新緑座」の入団実技テスト・午後の部」の真っ最中だ。
 小さなファンヒーターが二台置いてあるものの、だだっ広い体育館の天井を暖めるだけ。腰掛けた三人の選考委員と向かい合うようにして、一人の青年が朗読をしていた。
 赤く上気したその顔。熱があるのではないかと思うほどに緊張の色を浮かべ、痛々しいほどだ。
(麻生拓磨《あそうたくま》か……。発声がD。アクセント……Dだよな、どう見ても。声量はE……。あ……噛んだ。たった半ページだってのに?)
三人の選考委員のうちの一人、京極明《きょうごくあきら》は履歴書を見ながら眉間にしわをよせる。
「はい。結構です。隣の控え室でお待ち下さい」
監督の大場の声。大きな黒い瞳と、黒い髪の愛らしい顔立ちをした最後のテスト生、麻生拓磨が退室していく。
(可愛いし、二十五才には見えないな。こんなコが劇団に居たら、毎日楽しいだろうな)
「おい、京極。終わったよ」
 隣りに坐った榎木由香子《えのきゆかこ》に肘をつつかれて我にかえる。
シナリオと演出を手がける榎木は今年五十七才。駆け出しのころは女優だったが、その豊かな文学の才能を生かして、専属のシナリオライターに鞍替えしたのだ。
 男勝りと歯に衣着せぬ言いようで、皆をビビらせてはいるが京極にはやさしい。入団テストの判定を任せられるようになったのも、榎木の進言があったからだ。
「今回は成果あったな。今の……えっと、麻生拓磨……とかいうコ意外は……」
 榎木が遠近両用メガネをはずし、やれやれといった感じで口を開く。
「まったくだ。どういう気の迷いで受験しようとしたのか、知りたいもんだ」
榎木のぼやきに、舞台監督の大場も参ったという表情で同調している。
 麻生拓磨の考査所見は散々だった。
「採用は六と十三……の二人ってとこだな」
「異存ありません」
 榎木と大場の対話が踏切の信号のごとく、京極の耳をかすめる。大場が履歴書の束をそろえて席を立ったときだ。
「待ってください! その……最後の麻生拓磨を入れて頂けませんか?」
 さえぎったのは、三人の中で一番若輩の京極だ。麻生拓磨に何か、光るものがあると感じたからだ。
「え」
 榎木と大場の驚きが重なり、京極は四つの視線を同時に浴びることになってしまった。
「あ……、稚拙な表現力に関しては反復練習で充分克服できる問題ですが、個性というのは育てようとして、育つものではないと思うんです」
 普段からあまり強く自分の意見を通すことなどない京極だ。榎木と大場は顔を見合わせたが、最終的には一人くらい変わったのが居るのもおもしろいし、京極の先見性に賭けてみよう……と言うことに話はおちついた。
 これが、麻生拓磨の「新緑座」入団時の顛末だ。
今年三十才の京極は入団十年目の中堅団員だ。入団前はリサイクルショップで中古家具や古着の修理や手入れをして、再び販売するという毎日だった。
 ある日、榎木らがそこへ芝居で使う家具を探しにやって来た。芝居好きで、すぐに榎木と親しくなった京極は彼女のすすめもあり、採用試験なしで小道具担当として団員に加わったのだ。
 その後、榎木に役者向きのマスクだ、とかなんとか拝み倒されて、役者に転向。数本の舞台をこなし、評判もそこそこだったにもかかわらず、役者が肌に合わないという理由で、あっさりと裏方に戻ってしまったという経歴を持っている。
 そんないきさつもあり、榎木は母子ほども年齢が離れてはいたが、京極にとって足を向けては寝られない存在となったのだ。
創立三十二年目の演劇集団である新緑座は数年来の赤字で運営が危惧されていた。だが、それまでの地道な活動が認められ、数年前から体育館を含め、少子化で使われなくなった小学校の使用が認められたのだ。
 それまで、上演施設や稽古場を借りるための費用は出費の半分以上を占め、貧乏劇団の経営を圧迫していた。
 昨年本居麻希人《もとおりまきと》という専属の若手男優が外部オーディションで準主役級を射止めたこともあり、ここ小学校へ劇団本拠地を移してからは京極をはじめ、常勤の者にはボーナスが出るなど、着実に赤字から解放されつつあった。
 団員には常勤の者とアルバイトの者とがいる。だが、演劇だけで食べていける者はほんの一握りで、二足のわらじをはく者がほとんどだ。そのため、常に全員が顔をそろえると言うことはない。フレックスタイム制を採用しながら、そのコアタイムに通し稽古を行い、それ意外の時間には事務や裏方の仕事をするというのがここの日常となっている。
現在、新緑座は夏から上演される「上海情話」の通し稽古の真最中だ。
 この物語は日中両軍が武力衝突した一九四〇年頃の上海を舞台に、中国人と当時そこを居留地としていた日本人との対立や交流を描いたミュージカルだ。榎木が脚本を手がけ、大場が監督を、そして小道具をはじめとする舞台装置と総合演出を京極が担当している。
 初公演となる拓磨には、台詞のないバックダンサーの日本人青年役が与えられていた。

 * * * * *

 今、午後四時。コアタイムまでにはまだ間がある。京極は主たる仕事場である「製材所」と呼ばれる作業場で一人の役者と対峙していた。
 製材所の入口のドアは取り外されていて、代わりに人の膝丈くらいのカーテンが一枚つり下げられていた。取り外されたドアをそっくり芝居で再利用したことと、大量に使われるシンナー類の換気をよくするためだ。
 そこで京極と向き合う美しい青年。彼こそが今、演劇界では知らぬ者の居ない本居麻希人だった。
東生劇場での準主役級の公演を成功裏に終え、再び新緑座に舞い戻った麻希人は「上海情話」公演に参加はせず、ここで裏方を手伝ったりして時間をつぶしている。急激に増えたマスコミ出演に対応するためだとも言われているが、なぜかここの団員で誰一人そう信じているものは居ない。
「いったい、いつまで待たせるつもり? 僕が入団したときからだよ。気持ちはわかっているでしょう?」
 尊大なその言い方に、京極にこみあげてくるのは言葉にならない憤りだ。
 ここで呑まれるわけにはいかない。京極は負けじと押し返すようなまなざしを向けた。
 麻希人の声はライトブラウンの髪に縁取られたその容貌にひけをとらぬくらい、ハリがあって美しい。もちろん、持って生まれたものはあろうが、その全身からはスターのオーラがにじみ出ているように思われるのだった。
(もう、その話はなかったことにしようと言ったはずなんだが……)
 眉間にしわを寄せたまま麻希人を見かえしたが、そんな仕草も何のその、彼の飄々とした態度は変わらない。
 荒唐無稽な理論を押しつけて、いかにもそれが正論であるかのように言いつのる。頭の中をのぞいてみたくなったと同時に、京極はこう、言葉を荒げていた。
「自分の都合のいいようにばかり考える、麻希人のそんな所は好きになれないね」
「気を悪くさせたらごめん。以前はもっとやさしくて、合宿所とかいろんなとこに一緒に出かけたし、思い出もいっぱいで……」
 京極のつれない返事に意外とあっさりトーンが下がり、美声も愁いを含む。