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ブラックウルフ
ブラックウルフ
novelistID. 51325
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対馬で別れて

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福岡中央病院産婦人科での診察を受け終わった私は、夏の盛りのまぶしい太陽を恨みながら、これからどうしたものかと、小高い丘状の西公園付近のアスファルトの路地を歩いていた。『日中の最高気温は36。2度でした。各地で熱中症患者が・・・』とさっきの病院の待合室でテレビのニュースがやかましく騒いでいたことを思い出した。
 ジッとしみ出てくる汗を拭うのさえ鬱陶しくて仕方がなかった。路上で行き会う人も汗を拭っていた。そして、私が、汗を拭いたハンカチをバッグにしまっていると、ちょうどその時、私のバッグの中のガラ携が「ぶーぶー」となった。
 須藤りょう子の声だった。
「裕太が、病院に担ぎ込まれたんだよ。早く行ってあげて。厳原の中原病院だから。」と言うや切れてしまった。
 りょう子は、私が対馬を離れて、福岡市内に住んでいることを知らないのだ。
 そして、私と裕太は喧嘩別れしたも同然になっていることも知らない。
 私は、藤井裕太と3か月前まで付き合っていた。
 今は別れたと言うべきか一時的に連絡していないだけというべきか、なんとも言えない状態だった。ちょっとした喧嘩をしてしまったんだ。
 よりによってこんな日に、裕太が倒れただなんて。
 私はアドレナリンが溢れて心臓がバクバクになったが、一方夏の暑さのためか疲労感で意識が遠ざかり始めた。それとも、こんな状況で「ご懐妊です」と告げられてショックを受けたためだろうか。
「ああ、あの先にベンチがある」とベンチに向かった。
 私は、ベンチに座り込むや自然と下腹部を右手でさすり撫でた。むしろ私自身をいたわるようになでた。ドンと座り込んでおなかに響かないように、左手でベンチを押さえながらゆっくり座った。
 ベンチの横には、6メートルくらいの銀杏の木が太陽の日差しを嫌がるでもなく、たたずむように立っていた。そして、銀杏は、その木陰をベンチに下ろしていた。
 銀杏の葉の面積が広くて、葉と葉の間からこぼれてくる太陽の光は、刺すように痛くて、その光りを浴びるのは居心地が悪かった。近くの街路樹に止まっている4~5匹のアブラゼミの鳴き声が、意外にも大きくて私を苛立たせた。
 私は、ベンチに座って首だけ地面に向けて
 ”これから一番早く対馬に行くには、今晩の夜行フェリーに乗り込むしかない。”
と思った。
 九州郵船のフェリーの時刻表が脳裏に浮かびながらも、疲れからくる眠気には勝てず、次第にまぶたが下りてきた。そして、「ふー」と息を吐いた記憶を最後に、私は寝入ったようだった。その間、私は夢を見ることもなく、時々はうつらうつらとしたものの、それ以外は深い眠りに落ちて結局4時間も寝入ってしまっていた。
 目を覚ましたとき、辺りは真っ暗になっていた。腕時計を見たら、午後9時になっていた。私はそこから10分歩いて、借りているアパートに戻り、取り急ぎ対馬で泊まれる用意をして、博多埠頭に歩いて向かった。タクシー代を節約して、その距離を歩きながら、今後のことを考えたかった。
 
 九州郵船のフェリー乗り場は2階建てのビルだったが、その2階の切符売り場の窓口で、1等客室の切符を5800円で買った。ざっと見て150人前後が順番を待っていた。そして、私は列の最後尾に付いた。開場になって、私はタラップを歩いてフェリー「ありあけ」に乗り込んだ。そして、1等客室の「淺生湾」という客室の一番奥のベンチ前の床にぺったりと座り込んだ。
 私はIpodを取り出して、イヤフォンを耳にはめながら
”この後は、携帯の電波も届かないから、邪魔されることもなくて余計なことを考えなくて済む。”
と考えた。
 私は、モーツアルトのケッヘル626番「レクイエムキリエ」をかけた。
 私の周りには、他人が長い船旅にうんざりしているうざったい顔しか目に入って来ないのに、耳から伝わってくるレクイエムは
   速くて激しくて荘厳で、それでいて豊かな宇宙からの音の贈り物
だった。こんなにも荘厳で、悲しくて、いとおしくて、それでいて地の底はるか地球のコアからのエネルギーをはらんだような音が、私の頭の中に満ちた。
 この曲は、私が厳原小学校の低学年次に初めて聞き、その後も何度も聞いていた。
 この曲を聴いていると、西と北側を400〜500メートルの急峻な山で囲まれた厳原小学校の校舎、私が住んでいた小さなアパート、夏の海の砂浜、写真の中の父と母の顔が次々と目に浮かんだ。
 母は、私を産んで数日してから、産後の状態が悪くて命を落としたと聞いていた。母とは会ったことがないに等しかった。だから、私は母がいないことには、それほど不満ではなかった。その分パパが優しかったから、それはそれで子供心に納得していたと思う。そう、私は優しいパパとの生活がずっと続いていくと思っていた。
 私が6歳の夏、父松村海人は中原病院に入院していた。私は小さかったから、何の病気か分からないままだった。もうすぐ退院だからと思って、半ばウキウキとパパに会いに行った。
 ベッドの上には目を瞑ったパパがいた。私はただ眠っていると思った。その前日私はこの病院でパパと話した。
「ユリ、パパがここを退院したら、ユリはどこに行きたい?しばらく休めるから遠くてもいいぞ?いっそのこと、ディズニーランドに行くか?」
とベッドに座るぱパパの海人が笑った顔で私に言った。
「やったーパパ!そうねえディズニーランドもいいけど。とりあえずパパと一緒に淺生湾の海水浴場に行きたい。」
「ええ、そんなとこでいいのか?」
「うん、そこで私は泳いで、パパはお魚釣って、釣ったお魚を焼いて食べるの」
「ああ、それくらいならお安いご用だ。いつでもいけるぞ」
「わああー、絶対だよ。それに友達も呼んでいい?」
「ああ、たくさん呼べよ」
「やったー」
 私は、昨日パパと一緒に海に海水浴に行けると聞いたから、早速ともだち4人に声を掛けた。『ねえねえ、一緒に淺生湾に海水浴に行く、私のパパが連れて行ってくれるんだよ』と同じクラスの友達を誘った。
”それなのに、それなのに。”
 私は当時パパと二人で暮らしていた。お母さんは生まれてすぐに死んだから、私はパパから育ててもらっていた。そして、片親の子どもだになったのは、不幸な星の下に生まれたせいだと子供心に納得し、その後の人生が平坦でないことも覚悟していた。おばあちゃんが近くに住んでいたから、パパの看病はおばあちゃんがしてくれていた。今日もベッドのそばにおばあちゃんが座っていた。
「ユリ、ユリ・・父さんはね、あなたの父さんはね・・・」
と声にならない声で、私に説明しようとした。
「パパはなんで起きないの?パパは私を海水浴に連れて行くって言ったじゃない。どうして起きないの?」
 私はそう言いながら、パパの手を探して見つけて握った。握れば温かい筋肉質の手がしっかりを私の手を握り返してくると思った。けどその手は冷たかった。鉄の手でないかと思うくらいに冷たくて、その冷たさにゾクッとした。
 私は、そんなはずはないと思いつつ、パパの顔を手で触りながら
「パパ、起きて・・・起きてよ、鼻をつま・・」
作品名:対馬で別れて 作家名:ブラックウルフ