命の30分間疾走
命の30分間疾走
時は1960年代後半。川上正太(しょうた)は大学生になっていた。春なのに最近ではいつものように日差しの熱い日だった。いっそ夏に早くなってしまえばいいのにと正太はふと思った。田舎の夏は退屈だったが、正太はそんな田舎の夏の風景が好きだった。特に想いれがあるわけではなかったが、夏の田舎は風鈴の音があちこちで鳴り響いて聞き心地がよく、何かを忘れさせてくれた。通り道では水はきをするおばさんたちや、夏祭りのみこしをかつぐおじさんや若者たち、夏祭りの花火大会、そしてそんな夏を清子(きよこ)と静かに過ごすのが好きだった。都会の若者はおそらくこんな退屈なものに目を奪われる暇もないのだろう、と感じていた。時は経済成長期の真っただ中だったので、正太の若者の仲間たちは将来のためにみな東京など関東圏や大阪や神戸、名古屋など大都市の大学に進学していた。将来はきっと東京に出て日本経済発展のために彼らは貢献するのだろう。それはそれで素敵な野望、というか夢なのだろう。だが、正太は田舎の地元の大学に進学した。いずれ東京に出ることもあるのだろうが、大学ではこののんびりとした田舎に留まりたいと思った。それに、母のことが心配であった。父を病気で失ってから地元の居酒屋を一人で切り盛りしていた。そんな母が一人で頑張って自分のために大学の学費を払ってくれていた。川上家は小さな田舎町の地元の自営業の居酒屋にしか過ぎなかったが、父の父、つまり正太の祖父の代から切り盛りしていた老舗の居酒屋だった。だからこそ母はその居酒屋をつぶしたくなかったのだろう。祖父は正太の小さい頃に亡くなったので、よくはっきりとは覚えていなかったが、正太をよく可愛がってくれていたし正太もおじいさん子だったらしく、そんなおじいさんの代から続く居酒屋を正太もつぶしたくなかった。だから大学の授業やアルバイト以外の空いた時間には居酒屋の仕事を手伝ったりもしていた。
今日は午前中から大学の授業だった。午前は普通に一人で授業を出て、昼食を取った後は午後からスペイン語の授業だった。いつものようにはじっこの真ん中あたりの席に座りノートと筆記用具を机の上に取り出した。時は学生紛争の時代だったが、こんな田舎の平和な大学にはそのような紛争を起こそうとするものなど一人もいなかった。都会の大学に進学した友人から大学の授業のストライキなどの話はよく聞いていたが、正太はそんな話を聞いても自分とは無縁の世界だと思った。田舎の大学の世界は平和そのものだった。
「おはよう」
そういって正太の肩を叩いて隣の席に清子は座った。清子は正太の初めての彼女だった。澄んだ瞳ときれいな笑い方をする女性だった。清子という名前がぴったりだった。彼女とは大学の授業で知り合った。その時代は結婚するのがいいこととされていたし、さらに田舎ではできれば早く結婚して親を安心させるのが当然のような慣例だった。だから正太の友人たちはみな高校時代からそういうことに慣れるため、というかそれとなく恋人を作る人たちが多かった。だが正太はバカ正直で自分の気持ちに素直だったので、本当に好きな人が現れまで時間がかかった。それにそういうのが照れくさくて苦手だったところもあり、大学になって初めて恋人らしき恋人ができたのだった。
授業が終わると二人は教室を出た。
¬今日は正太くんもう授業終わりなの?」清子がそう聞いてきた。
「うん終わりだよ」正太は特に何も考えずになんとなくそう答えた。
「おいしい喫茶店の店をみつけたの、一緒に行かない?駅前なんだけど・・・」
「いいよ。今日ちょうど自転車で大学に来たから自転車で一緒に行こう。ついでに駅まで送るよ・・・ほらそこに自転車」
正太はバスで自宅から大学まで通っていたがバスで通学するほどの距離でもないので
前から自転車が欲しかった。だが、高校時代まで両親に自転車をある事件をきっかけに乗ることを禁止されていた。
「正太君自転車持ってたんだ・・・」
「うん。今まで乗れなかったんだけど。ずっと乗りたかったんだけど・・・無理だったんだ。」
「無理・・・?」
「あ・・・いや、今思えば馬鹿げた話なんだけど。昔はよく無茶をしたからな。」
清子は不思議そうに正太のことを見た。
「どうしたの?」
「ううん・・・なんか私の知らない正太君を見てしまったみたいで・・・私聞いてはいけないこと聞いてしまったのかな。」
「いや、誰かに話したかったんだ。あまりに馬鹿げていて笑われると思っていたから大学からの新しい友人には誰にも話したことがなかったのだけど。でも話すよ。その喫茶店についたら。」
二人は駅前の喫茶店まで自転車で二人乗りをして向かった。今までこんなことをしてみたかったと正太は思った。清子の言うとおり新しくできた喫茶店は田舎町には珍しいくらい洒落ていた。ブッラクとアイスティーをそれぞれ注文した。
「自転車の話なんだけど。なぜか君には話したくなったんだ。」
「うん。なぜ自転車を今まで乗れなかったの?」
「話せば長くなるんだけど、正確には禁止されていたんだ。ある事件があってから」
「事件?」
「そう・・・もう中学生くらいの頃の話。今思えば親にはずいぶん心配をかけた。」
正太はその事件について話し始めた。
その頃正太は中学生だった。時代は1960年代前半。日本がまだ高度経済成長に入る前の時代でどこの家もまだ貧しかった。正太の家も決して裕福でなかった。当時まだ父は生きていて両親は必死に居酒屋を切り盛りしていた。田舎町だったから正太の友達もみんなそんなものだった。お小遣いをもらえる子供なんてほとんどいなかった。正月のお年玉が唯一のもらえたくらいのお金だった。だが正太はおじいさん子でおじいさんには可愛がられていたので時々お小遣いをおじいさんから内緒でもらっていた。そのお小遣いで駄菓子を買うのが楽しみだった。アイスの当たりがでるのが楽しみだったが大概は外れだった。日本中が豊かになりたいと願って東京を夢見て田舎を出て都会に進出する人が増え始めた時代だったが、正太の両親はマイペースで田舎が好きな人だった。だから世間のことなど両親には関係なく思えた。もちろん小学生だった正太にはそんな両親の考え方など知る由もなかったが、そんなのんびりした両親の性格を受け継いだのかもしれない。
正太という名前は正しく正直でいる、という想いを込められて両親から名づけられた。その名の通りに正太は成長して素直で正直で曲がったことが嫌いだった。当時は現代と違ってガキ大将というのが必ずいた。喧嘩もみんなよくした。いまでいういじめみたいなことも頻繁に行われていた。しかし、陰湿ではなく正々堂々と喧嘩をするのが男らしいとされていた。正太の通っていた中学校にももちろんガキ大将がいた。しかし、ガキ大将は普段は陰湿ないじめのようなことはせず番長的に子分をたくさん従えていて命令をしていた。ガキ大将は普段は表立って現れなかった。しかし、その子分たちがどこかで強いやつがいる、という噂を聞きつけると、番長であるガキ大将に報告した。