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短編集『ホッとする話』

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 そんな話をしていた時だ。昔の記憶が甦ったのは。誕生日、そして同じ日であることが繋がったのだろうか――。

 半開きの戸から覗いて見えた母の静かな嗚咽、その場面が頭の中に貼り付くと僕は急に胸が締め付けられた。曇る表情、朱音は夫の様子の変化が分かるとすぐにカウンターから回ってくるなり篤信の横に座って背中をさすった。
「どうしたの?」
 心配そうに夫の顔を見る妻、篤信はお腹に命を宿す身に心配を掛ける自分が恥ずかしいと思った。
「ちょっとね、昔を思い出してさ」
「昔って、いつ頃?」
篤信は苦笑いをして彼女の顔を見つめた。その顔を見ると、隠さなくてもいいと目で許しているのを感じた。
「6歳の誕生日のことなんだけどね」篤信は心配させまいとクスッと笑顔を見せて視線を一度逸らした。
「母さんに『妹が欲しい』って言うたらね、母さんそのあと、隠れて泣いとったんや」
「そう――」表情ひとつ変えず、朱音は返事をした。
「あの時僕は子供ながらになんちゅうこと言ったと今も反省しとう」
「まあ、よりによって『妹』やもんね」
 朱音は目を細めて篤信の額をつついた。無邪気なあの頃に戻ったようにお互いに笑った。
 
 二人で笑ったあと、間が途切れてるとコーヒーの匂いとBGMとして流していたピアノの演奏がキッチンカウンターを取り囲んだ。時間は止まったまま、互いに顔を見ていると、朱音はクスクスと笑い始めて沈黙が破れた。
「どうしたんよ、朱音ちゃん?」
朱音は何を言われてもクスクスを止めない。僕はもう一度声を出そうとする直前に朱音の方から口を挟む。
「あたしもね、篤信君と別れてアメリカに行った後に弟が生まれたでしょ?」
「うん」
「その時お母さんに言ったんよ。『お兄ちゃんが欲しかった』って」
 僕はハッとして妻の顔を見つめた。今にも吹き出しそうな顔でこらえている。
「僕も、朱音ちゃんも。一緒やったんやね」
「同じじゃ、ないわ」そう言ってこらえきれずに再び手を口に当てて笑い出した。
 朱音はカウンターのカップを下げて立ち上がろうとした「あたしにはきょうだいが、いるもの。だからあたしはあなたの妹でありたかったの」
 篤信は妻の言葉を聞いて記憶のパズルをはめ込もうと試みた。しかし、自分のピースのどれを当ててもピタリと合うものがない。

 間が切れてしばらくして朱音は夫の顔を間近にのぞきこんだ。
「あたし、二人目ができたこと報告したらママ先生に抱きしめられて、言われたんだ。『ありがとうね』って」
「何が、ありがとうなの?」
篤信はハッとして頭をあげた。朱音の言う「ママ先生」というのは篤信の母のことだ。小さい頃から娘同様に面倒見てもらっていたから、今でも義母をそう呼んでいる。
「『聖郷をお兄ちゃんにしてくれて』って」
朱音は手を口に当てて、夫の様子を見ている。
「篤信君がきょうだいを欲しがっていたのはチビの頃から知ってた。だから、篤信君がそんな事言った気持ちは分かる。それで、ママ先生も聖郷を一人っ子にしたくなかったんだって。それと、篤信君も」
「僕も……?」
朱音は篤信のカップを手にとって立ち上がった。
「口止めされてたんだけど、あたしは篤信君には知ってもらいたかったから、言うね。ママ先生、筋腫があったんだって。だから――」
「そうやったんや……」
「篤信君の誕生日の話、そこで聞いたの」
 篤信はその時タブーとしていたあのシーンがまた甦った。気丈な母のことだから、そんな事は人に一切話すことはないと思っていた。
 医師である篤信はそれ以上の説明はいいと目で合図した。母の年齢や妻の説明を聞いて、言わんとすることがわかったからだ。
「ということは、きょうだいどころか僕自信も生まれてくるかわからなかったんだ……」
篤信は横に立つ朱音の手首をつかむと、彼女はもう片方の手でお腹を押さえながらもとの席にゆっくりと戻った。
「音々ちゃん」篤信は子供の頃に帰って妻をあだ名で呼んだ。
「なあに、篤兄ちゃん」
「僕は、母さんにアホなことを言うた。それと、音々ちゃんにも。母さんはあんなことを言った僕に泣いてたんやで」
「どういうこと?」
朱音はきょとんとした目で夫の目をみた。
「妹は、おるんや。ここに。なのに欲しいって言ったから。そして音々ちゃんは僕のために努力をしてくれたから」
「そやけど、あなたの妹は妻になったよ」
「それを言うなら、君の望んだ兄だって夫になった」
「ホントだ。さっきは違うって言ったけど、やっぱり一緒なのかな」
 朱音は引き寄せられた夫の腕に頭を乗せると篤信は寄ってきた妻の頭をガシガシと撫でてみた。すると彼女は大きくなったお腹をさすって微笑んでいた。次に生まれてくる子どもも彼女の中で踊っているのだろう。