夜行譚7-代償ー
やめて、やめてと叫ぶ甲高い声がどこか遠くから聞こえていた。
いや、やめて、ひどい、こわい、どうして?どうしてどうしてどうして?
答えなど、誰もくれない。
与えられるのは痛みと恐怖と、絶望。
どうして?
ただ、生きたかっただけなのに。
ふ、と香の間に錆のような苦い臭いを嗅ぎ付けて、玉藻は書き物をしていた手を止めた。
筆を硯に置くと、よもやそれまでは筆が紙の上を滑る音に紛れてしまっていたのではないかと思えるほどか細い声が蔀戸の向こうから届いた。
「お社さま…?」
声と共に、玉藻の前に姿を現したのは、やせ細った子狐であった。
子狐は、小さいながらも狐火をまとってはいたが、それも瞬きをする間に掻き消え、同時に子狐の身体も音も立てずに崩れ落ちた。
玉藻がそっとその身体を抱きあげると、白い手をぬるりと伝うものがある。
元より臭いで察してはいたが、子狐は酷い怪我を負っていた。
「お主…」
玉藻が、そっと己の妖力を注いでやると、子狐は薄く瞼を開き、玉藻の姿を捉えると、安心したように少し笑った。
「お、社、様…ですか?」
「主が誰を訪ねて来たかは知れぬが、この社の主はわしじゃ。何か、用か?」
「不躾な、お願いを、します…どうか、妹を、僕の妹の橘花を、助けてやってください」
「妹?」
「山の、ふも、とで、泣いています。もう、三日も…このままじゃ、死んでしまう。僕の声は、届かなくて、だから…」
だから、と繰り返す声は最早玉藻の聴覚をもってしても掠れた呼吸音にしか聞こえなかった。
必死に開いていたのであろう瞼が、ついに再び閉じて、ころり涙の一粒と共に命が落ちて消えた。
玉藻は、掌の中に残った微かな光の残滓をそっと懐にしまうと、自身で蔀戸を開け、脱ぎ散らかしていた下駄を拾い上げて呟く。
「そろそろ、この社にも人を入れねばの…」
どれだけ強く抱きしめても、冷えた身体に再び熱が戻ることは無く、
どれだけ涙を注いでも、硬直した身体が再び動き出すことは無かった。
父も、母も、冷たく硬くなって、消えた。
あの時も、あの時も、酷く哀しくて切なくて苦しかったけど、また、笑うことが出来た。
桜花がいたから。
寒さに凍えた朝も、飢えに苦しんだ冬も、寂しさが押し寄せた夜も、桜花が隣で笑ってくれたから、一緒に笑うことが出来た。
けれど、桜花はもう笑わない。
父や母と同じように冷たく硬くなってしまった。そしてきっともうすぐ消えてしまう。
私を置いて。
もう、涙も零れない。
からからに乾いた身体は疲れきって桜花を悼むことももう、出来ない。
ううん、このまま眠ってしまえば、哀しい事なんてもう何も無くなる。
また、桜花と一緒にいられる。
だって、一人でなんて、生きていられないんだもの。
「連れて行って…」
冷たく硬い桜花に寄り添って、そっと瞼を閉じようとした時、からりと澄んだ音がした。
それは、人の履物の音。
人は嫌い。
悲鳴をあげる身体を無理やり動かして、音のした方へ向き直る。
そこにいたのはー…
「ひ、と?」
「では無いのう…お主が橘花、じゃな?」
「どうして…」
「お主の兄に頼まれて、来た」
「そんな…」
背中に庇った桜花を見る。
そこには、この三日間変わらない姿で倒れ伏したままの身体があった。
そのことに、安堵と切なさを同時に覚える。
「嘘」
「嘘では無いよ」
柔らかい口調で言いながら、ソイツは懐から右手をそっと抜いた。
白い掌の中にそっと包まれていたのは、小さな小さな光の欠片。
「それ…」
「桜花の魂魄じゃ。身体が死んで、魂魄だけになって、わしの元へやってきた。…お主を頼むと言っての」
「そんな…桜花、桜花、返して!!桜花を返してよ…!!」
叫びながら、飛び掛る。
けれどふわりと避けられて、地面に強かに身体を打ちつけた。
痛い、けど、桜花はもっと痛かった。もっと辛かった。もっと、もっと…
「返してぇ…っ」
渾身の力を込めて、もう一度。
飛び掛った瞬間、柔らかい光に包まれた。
柔らかい、優しい、暖かい…
木漏れ日のような、優しい光。
「おう、か…?」
よかった、もう、どこへも行かないでね…
ようやく取り戻した安らぎの中、今度こそ、私は目を閉じた。
この泥棒がようやっと捕まえたうちの大根齧ったのはこいつらにちげえねえうちは鶏を獲られた畑を踏み荒らすのもこいつらだろう生かしてはおけん
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺してしまえ!!!!!
「止めて!!」
伸ばされた手を振り払うように身を起こした橘花の目に飛び込んできたのは、瞼の裏に見た情景とはほど遠い、穏やかな室だった。
優しい空気の中には微かに花の香のような匂いが漂う、あの日とは全く別世界のような、室。
けれど、早鐘のような鼓動が、夢もまた、現実であることを伝えている。
痛いほどに響く音は、忘れるな、と言っているような気がした。
(忘れられるはず、無い…)
あの時、伸ばされた村人たちの手を掻い潜って、必死に縋った手が掴んだのは、殺気を含んで冷えた空気だけだった。
桜花の手は、橘花の手を強く振り払い、そのまま、橘花の身体を草陰に突き飛ばして…
(行ってしまった)
橘花は、どんどん小さくなっていく桜花の背中を見送ることしか出来なかった。
怖くて、声も出なかった。
たくさんの怒声と鋼が擦れ合う怖い音、それらを引き連れて行った桜花がどうなってしまうのか、考えるのも怖くて。
耳を塞いで、目を閉じて、大人しく朝を待っていれば、明るい光と一緒に桜花が帰ってくるかもしれないと、そんな都合のいい夢を抱いたまま、結局予想通りの酷い現実を迎えてしまった。
「あの時、私も一緒に行けばよかったんだ…」
そうすれば、こんなに哀しい思いをすることは無かった。
一人ぼっちになることなんて、無かった。
桜花を一人で怖い目に遭わせることも無かった。
「桜花、桜花、どこ…会いたいよぅ…」
枯れ果てたと思っていたはずの涙が、再び溢れ出した。
一緒に、噛み締めた歯の隙間から、嗚咽が零れる。
桜花を失ってから三日間、ずっとそうだったように、その声に応えは無い、筈だった。
「桜花ならば、ここにおる」
しかし、ふいに聞こえた思わぬ声に驚いた橘花が顔を上げると、いつの間にやってきたのか、玉藻がゆったりと座り込んでいた。
脇息に置いた右手には、優しい懐かしい光を携えて。
「桜花…!」
飛びついた橘花を、玉藻は今度は避けずに大きな袖で受け止めた。
「よしよし、少しは元気を取り戻したようじゃの。痛いところは無いかえ?」
「桜花、桜花に会わせて…会わせてよ!!」
柔らかく包み込んだ腕を押し除け、右手の光に飛びかかろうとする橘花を、玉藻は苦笑しながらも強く抱きしめた。
「これ、慌てるでないよ。ご覧、これが桜花じゃ。かそけき光じゃ。乱暴に扱っては壊れてしまうえ」
「壊れる…」
「そうなったら、二度と桜花には会えぬ」
低い声で囁かれて、橘花は差し伸べかけた手を慌てて引っ込め、血の気の引いた白い顔を玉藻へ向けた。
「どうしたらいいの?どうしたら、桜花に触れられるようになるの?」
いや、やめて、ひどい、こわい、どうして?どうしてどうしてどうして?
答えなど、誰もくれない。
与えられるのは痛みと恐怖と、絶望。
どうして?
ただ、生きたかっただけなのに。
ふ、と香の間に錆のような苦い臭いを嗅ぎ付けて、玉藻は書き物をしていた手を止めた。
筆を硯に置くと、よもやそれまでは筆が紙の上を滑る音に紛れてしまっていたのではないかと思えるほどか細い声が蔀戸の向こうから届いた。
「お社さま…?」
声と共に、玉藻の前に姿を現したのは、やせ細った子狐であった。
子狐は、小さいながらも狐火をまとってはいたが、それも瞬きをする間に掻き消え、同時に子狐の身体も音も立てずに崩れ落ちた。
玉藻がそっとその身体を抱きあげると、白い手をぬるりと伝うものがある。
元より臭いで察してはいたが、子狐は酷い怪我を負っていた。
「お主…」
玉藻が、そっと己の妖力を注いでやると、子狐は薄く瞼を開き、玉藻の姿を捉えると、安心したように少し笑った。
「お、社、様…ですか?」
「主が誰を訪ねて来たかは知れぬが、この社の主はわしじゃ。何か、用か?」
「不躾な、お願いを、します…どうか、妹を、僕の妹の橘花を、助けてやってください」
「妹?」
「山の、ふも、とで、泣いています。もう、三日も…このままじゃ、死んでしまう。僕の声は、届かなくて、だから…」
だから、と繰り返す声は最早玉藻の聴覚をもってしても掠れた呼吸音にしか聞こえなかった。
必死に開いていたのであろう瞼が、ついに再び閉じて、ころり涙の一粒と共に命が落ちて消えた。
玉藻は、掌の中に残った微かな光の残滓をそっと懐にしまうと、自身で蔀戸を開け、脱ぎ散らかしていた下駄を拾い上げて呟く。
「そろそろ、この社にも人を入れねばの…」
どれだけ強く抱きしめても、冷えた身体に再び熱が戻ることは無く、
どれだけ涙を注いでも、硬直した身体が再び動き出すことは無かった。
父も、母も、冷たく硬くなって、消えた。
あの時も、あの時も、酷く哀しくて切なくて苦しかったけど、また、笑うことが出来た。
桜花がいたから。
寒さに凍えた朝も、飢えに苦しんだ冬も、寂しさが押し寄せた夜も、桜花が隣で笑ってくれたから、一緒に笑うことが出来た。
けれど、桜花はもう笑わない。
父や母と同じように冷たく硬くなってしまった。そしてきっともうすぐ消えてしまう。
私を置いて。
もう、涙も零れない。
からからに乾いた身体は疲れきって桜花を悼むことももう、出来ない。
ううん、このまま眠ってしまえば、哀しい事なんてもう何も無くなる。
また、桜花と一緒にいられる。
だって、一人でなんて、生きていられないんだもの。
「連れて行って…」
冷たく硬い桜花に寄り添って、そっと瞼を閉じようとした時、からりと澄んだ音がした。
それは、人の履物の音。
人は嫌い。
悲鳴をあげる身体を無理やり動かして、音のした方へ向き直る。
そこにいたのはー…
「ひ、と?」
「では無いのう…お主が橘花、じゃな?」
「どうして…」
「お主の兄に頼まれて、来た」
「そんな…」
背中に庇った桜花を見る。
そこには、この三日間変わらない姿で倒れ伏したままの身体があった。
そのことに、安堵と切なさを同時に覚える。
「嘘」
「嘘では無いよ」
柔らかい口調で言いながら、ソイツは懐から右手をそっと抜いた。
白い掌の中にそっと包まれていたのは、小さな小さな光の欠片。
「それ…」
「桜花の魂魄じゃ。身体が死んで、魂魄だけになって、わしの元へやってきた。…お主を頼むと言っての」
「そんな…桜花、桜花、返して!!桜花を返してよ…!!」
叫びながら、飛び掛る。
けれどふわりと避けられて、地面に強かに身体を打ちつけた。
痛い、けど、桜花はもっと痛かった。もっと辛かった。もっと、もっと…
「返してぇ…っ」
渾身の力を込めて、もう一度。
飛び掛った瞬間、柔らかい光に包まれた。
柔らかい、優しい、暖かい…
木漏れ日のような、優しい光。
「おう、か…?」
よかった、もう、どこへも行かないでね…
ようやく取り戻した安らぎの中、今度こそ、私は目を閉じた。
この泥棒がようやっと捕まえたうちの大根齧ったのはこいつらにちげえねえうちは鶏を獲られた畑を踏み荒らすのもこいつらだろう生かしてはおけん
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺してしまえ!!!!!
「止めて!!」
伸ばされた手を振り払うように身を起こした橘花の目に飛び込んできたのは、瞼の裏に見た情景とはほど遠い、穏やかな室だった。
優しい空気の中には微かに花の香のような匂いが漂う、あの日とは全く別世界のような、室。
けれど、早鐘のような鼓動が、夢もまた、現実であることを伝えている。
痛いほどに響く音は、忘れるな、と言っているような気がした。
(忘れられるはず、無い…)
あの時、伸ばされた村人たちの手を掻い潜って、必死に縋った手が掴んだのは、殺気を含んで冷えた空気だけだった。
桜花の手は、橘花の手を強く振り払い、そのまま、橘花の身体を草陰に突き飛ばして…
(行ってしまった)
橘花は、どんどん小さくなっていく桜花の背中を見送ることしか出来なかった。
怖くて、声も出なかった。
たくさんの怒声と鋼が擦れ合う怖い音、それらを引き連れて行った桜花がどうなってしまうのか、考えるのも怖くて。
耳を塞いで、目を閉じて、大人しく朝を待っていれば、明るい光と一緒に桜花が帰ってくるかもしれないと、そんな都合のいい夢を抱いたまま、結局予想通りの酷い現実を迎えてしまった。
「あの時、私も一緒に行けばよかったんだ…」
そうすれば、こんなに哀しい思いをすることは無かった。
一人ぼっちになることなんて、無かった。
桜花を一人で怖い目に遭わせることも無かった。
「桜花、桜花、どこ…会いたいよぅ…」
枯れ果てたと思っていたはずの涙が、再び溢れ出した。
一緒に、噛み締めた歯の隙間から、嗚咽が零れる。
桜花を失ってから三日間、ずっとそうだったように、その声に応えは無い、筈だった。
「桜花ならば、ここにおる」
しかし、ふいに聞こえた思わぬ声に驚いた橘花が顔を上げると、いつの間にやってきたのか、玉藻がゆったりと座り込んでいた。
脇息に置いた右手には、優しい懐かしい光を携えて。
「桜花…!」
飛びついた橘花を、玉藻は今度は避けずに大きな袖で受け止めた。
「よしよし、少しは元気を取り戻したようじゃの。痛いところは無いかえ?」
「桜花、桜花に会わせて…会わせてよ!!」
柔らかく包み込んだ腕を押し除け、右手の光に飛びかかろうとする橘花を、玉藻は苦笑しながらも強く抱きしめた。
「これ、慌てるでないよ。ご覧、これが桜花じゃ。かそけき光じゃ。乱暴に扱っては壊れてしまうえ」
「壊れる…」
「そうなったら、二度と桜花には会えぬ」
低い声で囁かれて、橘花は差し伸べかけた手を慌てて引っ込め、血の気の引いた白い顔を玉藻へ向けた。
「どうしたらいいの?どうしたら、桜花に触れられるようになるの?」