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Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ

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 雨が降っている。
 降り注ぐ冷たい水。吹きつける風。雲は月も星も覆い隠し、一切の光を奪い去る。嵐はどこまでも続く森の木々を揺らし、不吉な音を奏でる。そんな中を走っていた。何も考えず、ただ走る。泥水が跳ね、ぬかるみが足を捕えようとする。冷たい雨は身体から温もりを拭い去り、衣服にしみこんで枷のように重くする。気を抜くと倒れ伏して、地面に沈み込んでいきそうだ。苦しい。助けて。誰か助けて。でも誰もいない。誰も助けてくれない。苦しくても辛くても、
 あれから逃げなければ。
 逃げろ逃げろ。逃げて逃げて逃げ続けろ。捕まればおしまいだ。何もかも。全てのことが。
 背後から闇が迫ってくる。
 牙を剥き、爪を研ぎ、不気味な啼き声を上げて。
 雨の中を孤独に走る小さな小さな存在を捕えようと追ってくる。
 逃げろ逃げろ。逃げ続けろ。足を止めたらおしまいだ。捕まったらおしまいだ。もう戻りたくない。引き戻されたくない。あの深い深い闇の底に。濁った血のようにどす黒い闇が纏わりつく、地獄の淵に。あそこへ行ったら、あの場所へ戻ったら、アイツが目を覚ましてしまう。アイツにだけは会いたくない。アイツの声だけは聞きたくない。
 アイツにだけは――
 そして、残りの力を振り絞って地面を蹴った時、
 その先に、足場はなかった。不穏な水音を響かせる裂け目が、ぽっかりと口を開けていた。
 そして落ちた。



 ――・・・・・・め・・・・・・よ。
 深い、闇の中にいた。光はどこにも見えなかった。縋るものは何もなく、導べすらもどこにもない。
 ただひたすら沈んでいく。冷たい。身体は重く、這い上がることは出来そうもなかった。
 だがその時、
 ――め・・・・・・・・・・・・よ。
 微かな、しかしはっきりと声が聞こえて、沈みゆく意識がわずかに浮上した。
 ――めざ・・・・・・よ。きゅ・・・・・・よ。
 誰だ?
 ――そなた・・・・・・しめ・・・・・・が・・・・・・る。そ・・・・・・めに。
 私を呼ぶのは誰だ?
 ――・・・・・・を・・・・・・た・・・・・・に。こ・・・・・・のために。
 お前は誰だ。
 ――目覚めよ。


 閉じた瞼の裏側からでも、強い日の光を感じる。瞼の裏は赤く染まって、深い眠りを妨げた。けれど、目を覚ますには至らない。瞼は重く、身体は睡眠を要求していた。
 鉛のように重い身体に、冷たい水が規則的に打ち付けている。けれど、指一本動かすのさえ億劫だ。潮騒は子守唄のように優しくて、水の冷たさも気にならないほど心地よい。そのままじっと、身体が要求するままに浅い眠りをさまよった。
 しかしその時、潮騒ではない音が耳朶を打った。
 しゃり、しゃり、という、砂を踏み締める音。ゆっくりと、規則的に、こちらへ近づいてくる。誰だ。人か? 魔物だろうか? 音の正体を確かめたくて、重い瞼をこじ開けて、うっすらと目を開けた。
 滲む視界はまばゆい太陽の光で満たされている。
 と、その光を遮るように、視界に黒い影が割り込んできた。逆光で顔はよく見えない。何か言っているような気がするが聞き取れない。はらりと落ちた一筋の髪が頬に当たるのを感じた。
 誰だ?
 わずかに動かした唇の動きを、音の主は読み取ったのだろうか。何か、訴えかけるように話している。けれど五感が正常に働いていなくて、音の主の声を聞き取ることはできなかった。
 ゆっくりと視界が暗転していく。再び、眠りの中に引きずり込まれていく。
 そうして、眠りの中に沈んでいった。



 目を開けると、そこにあったのは木造の薄汚れた天井だった。
 見慣れない天井だ。潮騒も、冷たい水の感覚もない。身体に掛けられているのは使い古された麻の布団。背中に感じるのは砂ではなく、つるつるした布だ。見覚えのない風景に当惑しながら、リゼ・ランフォードは身体を起こした。
「よかった。目が覚めたのですね」
 すると、初めて耳にする女性の声が、右手から聞こえてきた。誰かいるのか。誰だろう。
「・・・・・・ここは?」
 まだ、頭が覚醒しきっていない。ここはどこだ。私は何をしていたんだ。
 逃げていた。ずっと。あいつらから。逃げていた。暗闇の、嵐の中。逃げて逃げて。落ちた。冷たい水の中に。そして私は。
「ここはバノッサです。デミトリウス派の町、という名の方が分かりやすいですか? スミルナからずっと西に向かったところにある町です」
 それを聞いて、途端に意識が現実に還ってきた。顔を上げ、ベッドの脇を見ると、一人の女性が椅子に腰掛けてこちらを見ている。逆光に目をしばたいたが、手で光を遮ると、そこにいる女性の顔が見えてきた。
「スミルナの西・・・・・・?」
 問い返すと、女性ははいと言って頷いた。髪は薄い水色。瞳は蜂蜜色。肌は白く、儚げという言葉が似合いそうな繊細な容貌だ。それに似合う慈愛に溢れた笑みを浮かべた女性は、リゼを気遣いながら言った。
「あなたはここからすぐ近くの浜辺で倒れていたのを、わたしが見つけました。衰弱していたようなので、ここに運びました。でも、どうしてあんな場所に倒れていたのですか? 規定航路からかなり離れていますが、まさか漂流されていたの?」
 矢継ぎ早に問いかけられたが、その質問は全く耳に入ってこなかった。それよりも気になることを、頭の中で反芻していたからだ。
 スミルナの西。この人はそう言った。スミルナ。マラークの神に定められし、七つの神聖都市の一つだ。
 ということはここは、
 アルヴィア帝国なのだ。



 面倒な場所に来てしまった。
 真っ先に思ったのがそれだった。
 アルヴィア帝国。教会が最も強い権力を持つ国。指名手配騒動が治まるまで戻るつもりはなかったのに、戻ってきてしまった。船から落ちた時、内海のどの位置だったのか見当もつかないが、こうしてアルヴィアに流れ着いたところを見ると、アルヴィア寄りの位置だったらしい。海でおぼれて死ななかったのは僥倖だが、まさかアルヴィアに来てしまうとは・・・・・・
 頭を抱えたい気分だったが、さすがに行動に移すのはやめておいた。それよりも状況を把握しなければならない。アルヴィアということは、手配書の心配をしなければならないのだから。
 まずは・・・・・・この人は誰だ?
 ベッドの横で椅子に座っていた女性は、リゼが怪訝そうな目で見ているのに気付いたらしい。はっとしたような顔をしたと思うと、それからすぐにこっと笑った。
「そうだ。まず自己紹介をしなければなりませんね。わたしはアンと申します。お名前を伺ってもよろしいですか?」
 女性――アンは胸に手を当てて、礼儀正しく尋ねた。名前、か。アルヴィアでは指名手配されている身だが、確か名前は知られていなかったはずだ。けれど――
「・・・・・・ソフィア」
 リゼはとっさに思い付いた名前を口にした。手配書に名前までは記されていないとはいえ、馬鹿正直に本名を名乗ることもないだろう。そんなリゼの思惑など知らないアンは満足げに微笑んで、「ではソフィア殿と呼ばせていただきますね!」と明るく言う。――なんとなく、めんどくさそうなタイプな気がする。何が楽しいのか、ニコニコ笑っているアンを見て、リゼはそんなことを考えた。