Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ
「この子は本当に役に立ってくれました。スミルナに悪魔を入り込ませることも、儀式を行うことも、わたしの器としても。おかげで面白いものを見られました。感謝しますよ。ゼノ・ラシュディ」
突如名を呼ばれて、リリスを睨みつけていたゼノははっと表情を変えた。リリスの発言に何か気付いたのか、見る見るうちに表情を凍らせていく。
「オレのせい・・・・・・なのか・・・・・・? オレが教会から連れ出したから・・・・・・」
茫然と呟くゼノの顔からはすっかり血の気が引いている。依頼されたとはいえ、シリルの逃亡を助けてミガーまで連れてきたのはゼノだ。教会から出さなければこんな風に利用されることもなかったのか。辛い目に合わせることもなかったのか。そのことに気付いて、後悔で震えている。そんなゼノを叱咤するように、アルベルトは言った。
「ゼノ。惑わされるな。悪魔に取り憑かれたシリルを、リゼの元まで無事に送り届けたのは君だ。君が連れ出したおかげでシリルは助かったのは動かしようのない事実なんだ」
教会はシリルを半ば攫うような形で修道院に入れ、祓魔の秘跡を授けることもせず監禁したという。教会が悪魔憑きを監禁し放置した――などとは考えたくないが、時間があり適任者もいたはずなのに悪魔憑きをそのままにしていたのは事実だ。シリルに憑く悪魔を祓ったのは悪魔祓い師ではなくリゼであることも事実だ。シリルをリゼの元に連れて行ったのは、ゼノであることも。
シリルを連れ出さなかったらどうなっていたかなんて、考えても仕方ない。
「――さっきから黙って聞いてれば余計なことをべらべらと。ふざけないでくれる?」
底知れぬ怒気をにじませて、リゼはそう吐き捨てた。一歩。二歩。リリスを睨みつけながら、リゼはゆっくり歩を進める。
「シリルを連れ出してくれたおかげ? だから何よ。こいつにも責任があるって言いたいわけ? あんた達が下らないことしなければシリルはこんな目に会わずに済んだのに」
「わたしはゼノ殿を責めてなんていません。むしろ感謝しています。見ず知らずの人間の頼みを疑いもせず聞き入れる、愚かな青年に」
「いちいち厭味ったらしい言い方するわね。責任逃れは結構だけど、そんな言葉に惑わされると思ったら大間違いよ」
「責任逃れなんてしてませんよ。わたしは事実を言っただけ。わたしはわたしのすべきことをしているだけ。――そう。忌々しき天使の力を排除し、地上を悪魔で満たし、邪魔な神の子を殺す。全ては魔王(サタン)様のために」
リリスは腕を広げ、恍惚とした表情で天を仰ぐ。まるでそこに魔王(サタン)が存在しているかのように。これが舞台の上で行われる演劇ならその演技力を称賛されるところだろうが、この薄暗い洞窟の中、芝居がかった仕草で語られるそれは悍ましいとしか言いようがなかった。
「反吐が出るわね」
リゼの低い声が、洞窟に響き渡った。
「消えなさい」
そう言い捨てて、リゼは悪魔祓いの術を唱え始めた。プリズムを帯びた光が、リゼの周りを舞い踊る。しかし、リリスは邪魔する様子もなく微笑んでいるだけだった。何を企んでいるのか、微動だにせずじっとリゼを見つめている。その間にもリゼの術は紡ぎあげられ、魔法陣と光の帯がリリスの元へ向かった。
「リゼさんのその祓魔の力。わたしには必要のない力です」
自らを捕らえようとする光の帯を見ながら、リリスは恐れる様子もなくそう言った。リリスは穏やかに術を使うリゼを見つめている。
「別にあんたのためにあるんじゃないわ。必要かどうかは私が決める」
そう言い放ち、リゼは術を強めた。光が駆け巡り、リリスを完全に包み込む。しかし悪魔祓いの術に捉われて尚、リリスは笑みを崩さなかった。
「わたしを浄化するんですか? そんなことが出来るんですか?」
リリスは嗤った。シリルではありえない婉然とした笑みで。子供のものではない、毒のある大人の笑みで。
そして次の瞬間、頭の中に甲高い金属音が響き渡った。
神経に障るその音に、アルベルトは頭を押さえた。頭の芯が痺れるような感覚と共に、軽い眩暈に襲われる。しかしアルベルトはすぐに眩暈を振り払い、リリスに剣を抜き切っ先を向けた。
「何をした!?」
嗤うリリスに、アルベルトは問いかける。幸いにも痺れと眩暈はすぐに弱まり、耳障りな金属音も消え失せた。だが安心は出来ない。魔女が眩暈と耳鳴り程度ですむことをするはずがないのだから。
リリスは無言のまま、すっと目を細めてアルベルトの剣を見た。その顔からはあの嫣然とした笑みがわずかに削ぎ落とされている。そして少しだけ視線を上げ、鋭い目でアルベルトを見た。
「やっぱり、あなたには効かないんですね」
あなたには効かない。忌々しげに告げられたその言葉。あなたには。すなわち、アルベルト以外には効くということだ。
「幻術か!」
そのことに思い至って、アルベルトは振り返る。すると、仲間達は頭を押さえ、混乱した表情でリリスの方を見ていた。
「おふくろ!? なんでここに・・・・・・!」
そう叫んだのはゼノだった。無論、彼の視線の先にいるのはリリスであって、彼の母親ではない。存在しない幻を見せられているのだ。
「ちょ、っと・・・・・・! ふざけないでくださいませ!」
「なん、なんだ! これは!」
ティリーもキーネスも苦しみながら、幻を振り払おうとするかのように目をつぶる。耳を塞ぎ、うつむき、幻を知覚しないようにしている。そんな中、
「母、さん・・・・・・?」
何もせず、凍りついた目をしたリゼが、リリスの幻を前にしてそう呟いた。
「――神の名の下に」
アルベルトは剣を構えると、祈りを唱えた。
「ここに蔓延る魔の力を打ち破りたまえ。消し去りたまえ。一切を無に帰し清めたまえ!」
聖なる力が宿った剣を振り下ろすと、硝子が割れるような音が暗い洞窟に響き渡った。リリスの正面。一見して何もないように見える空間。そこに、空間の揺らぎがある。皆を惑わせている幻はそこにあるのだ。リリスの力は強く、ただやみくもに斬りかかったのでは幻を打ち砕けないだろう。しかしアルベルトの眼は幻術の核とも言える部分を見出していた。祈りの力で幻は砕かれ、リゼ達の呪縛を解いていく。
「やっぱりその力、わたしには必要ありません」
一瞬で笑みから面のような無表情に変わったリリスは低くそう呟くと、手を上げて衝撃波を放った。アルベルトはそれを避け、少し残っていた幻を打ち砕く。すると我に返ったリゼが、再び悪魔祓いの術を放った。
「あんた、とっとと消えなさい!」
光の帯がリリスに向かって奔る。それを、リリスは無表情のまま見つめている。抗っても無駄だと悟ったのだろうか。
「潮時ですね」
ぽつりと呟くと、リリスは視線を正面に戻した。
「安心してください。この子は返します。――その代わり、これをあげますね」
リゼの浄化の光に飲まれながら、リリスは空中に真っ黒な円を描き出した。円は魔法陣を離れ、拡大し、大人の身長ほどの大きさになる。その今にも溢れ出しそうな闇は、円の中でごぼりと泡立った。
「――! 伏せろ!」
アルベルトが叫んだ瞬間、地下洞窟に無音の衝撃が響き渡った。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ 作家名:紫苑