Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ
リゼを呼ぼうとしたティリーを制止して、アルベルトは苦笑する。こんなときでもティリーの好奇心は止まらないようだ。好奇心を持つのはいいのだが、今発揮されても困る。行動を止められてティリーは不満そうな顔をしたが、さすがにそれどころではないと思ったのか大人しく居住まいを正した。
「うーん・・・・・・」
その時、ゼノのいる方から小さな呻き声が聞こえた。視線を移すと、岩の上に横たわっていた少女が、わずかに身じろぎをしている。目を覚ましたのだ。少女は開いた目を頼りなげにさ迷わせ、不安の表情を浮かべる。それに気づいたゼノが、彼女の下へ駆け寄った。
「シリル! よかった! 気が付いたんだな!」
「ゼノ殿。わたし、助かったんですか・・・・・・?」
少女はぼんやりとゼノを見、周囲を見回してからすっと立ち上がった。悪魔に取り憑かれていたとは思えない軽々とした動作に、ゼノは驚いて目を見張る。ゼノが大丈夫なのか、と声をかけると、彼女はにこりと笑った。
「平気です。心配をかけてごめんなさい」
「そんなことどうでもいいわ。本当に何ともないの?」
沈黙を解いたリゼが、少女にそう語りかける。彼女はリゼに視線を移すと、嬉しそうな表情をして歩み寄った。足取りは軽く、そのままリゼに抱きつきそうなほどで。
「本当に何ともないですよ。リゼさん。また助けてくれて、ありが――」
「リゼ! ゼノ! その子から離れろ!」
その瞬間、アルベルトは彼女の言葉を遮るようにそう叫んだ。
行動が速かったのはリゼの方だった。アルベルトの警告を聞くや否や、リゼは駆け寄ってきた少女から距離を取る。少女は笑顔のまま、ぴたりと足を止める。不気味な気配を察したリゼは魔術を唱え始めたが、それが完成するよりも少女が右手を上げる方が先だった。
少女が突き出した指先から、リゼに向けて黒い衝撃波が放たれた。それは悪魔召喚をしていた時や、マリウスが使ったものよりもずっと強い。その衝撃波が届く前に、二人の間に割り込んだアルベルトは抜き放った剣を一閃させた。白い光で衝撃波(黒)を蹴散らし、塵に還す。相手の力が強すぎて全てを防ぎきれなかったが、リゼの魔術がかろうじて残りの衝撃波を打ち消した。そしてアルベルトはそのまま距離を詰めると、剣の切っ先を少女の喉元に突きつけて、
「お前は誰だ」
そう詰問した。
「やっぱり、気配を隠していてもあなたには分かってしまうんですね」
アルベルトに視線を移し、笑みを浮かべてシリルは言った。否、シリルではない。何者かがシリルに取り憑いているのだ。それも悪魔ではない。悪魔に近い別の何か。そう、思えば生霊に似ている。
「もう一度聞く。お前は誰だ」
剣を向けたまま、アルベルトはシリルに取り憑く何者かに詰問する。こんな気配を持つ輩、初めて視る。確かなのは、とても邪悪な者だということだ。静かだが、悪意に満ちた者であることだ。
すると不意に、少女を観察していたティリーが呟いた。
「こいつ、悪魔ですの? でも聖印があるのに――」
「聖印? これですか?」
そう言うと、彼女は胸元に掛けられた麻袋を取り出した。聖印が納められたそれは、彼女の掌の中でバチバチと閃光を放っている。シリルに取り憑いている者に反応しているのだ。しかし聖印の閃光にいくら打たれようと、彼女は平然としている。聖印の結界など、何の障害にもならないというかのように。
「あなたの力など、わたしには及びませんよ。アルベルト殿」
麻袋を放り投げ、彼女は嗤った。聖印が納められたそれは、軽い音と共に岩の上に転がる。聖印が効かない。アルベルトの力と、正五芒星が元から持つ聖なる力を合わせても、この者には届かない。只者ではない。こいつは一体・・・・・・
「あんた一体誰よ。もったいぶってないでさっさと答えなさい」
その時、隣にいたリゼが鋭い口調でそう言った。いつでも悪魔祓いの術を放てるように魔力を高めながら、リゼはシリルに取り憑く者に厳しい視線を投げかける。少女はリゼに視線を移すと、目を細めた。
「また会えましたね。お姉ちゃん」
シリルに取り憑く何者かは、親しげな口調でリゼに呼びかけた。それでリゼは相手が誰か気付いたらしい。鋭い視線でシリルを睨み、険しい声で呟いた。
「・・・・・・リリス」
聞き覚えのある名前だった。アルベルトは驚いて、シリルを見る。シリルに取り憑く、シリルではない存在。悪魔に関わりのある人物で、その名を持つのは――
「リリスだって? こいつが――」
「知ってるの?」
リゼが問いかけてきたので、アルベルトは頷いた。彼女が知らなかったのは意外だが、悪魔教に少し詳しい者なら皆その名を知っている。
「魔女リリス。悪魔教の指導者だ」
ヘレル・ヴェン・サハルに居を構えるという、悪魔教の教主だ。
それが今、シリルに取り憑いている。リリスは悪魔教徒だが、悪魔そのものではない。生霊状態のオリヴィアがシリルの身体を借りたのと同じように、リリスも魂だけの状態で他者に寄り憑く術を持っているのだろうか。なら本体はどこにいる。
まさかヘレル・ヴェン・サハルから術を使っているのだろうか?
「リリス。お前の目的はなんだ」
「そんなの分かりきってるじゃないですか。この世に魔王(サタン)様を降臨させ、神を滅ぼすことです」
穏やかな表情でそう語るリリス。この世に魔王(サタン)を降臨させることは、まさしく悪魔教徒の悲願。訊くまでもなく分かり切っていることだ。アルベルトが訊きたいのはそれではない。
「違う。どうしてスミルナで悪魔召喚をしようとした? どうして自分から姿を現した?」
鋭く疑問を投げかけると、リリスは嬉しそうに笑った。よくぞ聞いてくれました、とでもいうように。
「スミルナは神の子が現れる地。そう預言されています。アルベルト殿ならよくご存知でしょう?」
神の子は千年目の始めに悪魔に苦しむスミルナに降り立ち、神の力で街を救う。彼の者は弱く惑う人々を白き光で照らし、神の栄光を知らしめる――
聖典に記された預言。救世主の降臨を示す記述。千年祭で降臨と浄化の儀が行われるこの街は、救済の始まりの場所でもあるのだ。救世主たる神の子が降臨し、全ての悪魔を滅ぼし、人類を永遠(とわ)の楽園へ導くという預言が叶うための。
「だから、わたしはこの街を変えておきたかったんです。天使の加護を受けし神聖なる都市を悪魔の黒で染め上げ、人が己の欲望のまま悪魔憑きとなれる場所に。神の子が本当に現れるか確かめるために」
芝居がかった動作を交えながら、リリスは滔々と語る。詠うような口調で、自身に酔っているように。
「預言の時が訪れる前にこの街が危機に陥ったら、はたして神はどちらを優先するのでしょう? 預言? それともこの街? もしスミルナがなくなったら、神の子はどこに現れるのでしょう? この街を救っても救わなくても預言は外れる。その時、神の子は一体どうするのでしょうか?」
歌うように語りながら、リリスは広げた両手を胸の前で組んだ。まるで祈るように。
「それがお前の目的か」
「はい。そしてそれを見届けに来ました」
そうしてリリスは手を胸に当てると、表情だけは子を見守る母のような笑みを浮かべた。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅳ 作家名:紫苑