霧雨堂の女中(ウェイトレス)
キツネにつままれたような気持でカウンターに戻ってきた私にマスターがにこりと微笑んだ。
「――それでも、私は納得できません」
私は思わずマスターにそう小声で言ってしまった。
「そうかな?」
マスターは躱すかのように、そううそぶき気味に言った。
「彼らも長いからねえ。もう3年かなあ。いつまでもあんな風でいられるのは、正直少し羨ましいよ」
そしてそう言うと、淹れたてのブレンドをもう一杯カップに注いだ。
私はそれをトレイに乗せて、また彼らのテーブルに向かった。
そこでは彼が大声にならないように気を配りながら、でも精一杯の熱心さで自分が仕事で取り組んでいるプロジェクトについて語っていた。
彼女はといえば、それをこれまた熱心に頷きながら聞きこんで、時々合いの手を挟むかのように何かを尋ねたりしている。
彼が何かに全霊で取り組むのを見るのがきっと大好きなのだろう。
――そして、ひいては何かに取り組む彼そのもののことが、きっと。
彼のことは、傍目でいても不器用なくらい真面目なのだろうということが分かる。
どんな一流の詐欺師にも作ることができないほどの真剣極まる誠実さが、身振り手振りで語りを進める様子から、隠しきれずに滲み出ている。
続いて彼女がおずおずとしゃべりだした。
何やら、彼女は絵を描いているらしい。
どうも街並みの絵のようだ。
彼はそれを熱心な目で頷きながら、真剣な面持ちで聞いている。
語り手と聞き手。
まるでさっきまでの彼と彼女の語りの構図がそっくり入れ替わったかのようだ。
私はそこで悟った。
――このふたりは不器用だけど、
お互いがお互いに対し、
きっと、なりふり構わず誠実なのだ。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名