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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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なんと、何も入っていない。
いや、正しくはお札の類いは少々残っているものの、小銭関係がただの一枚も入っていなかったのだ。
おつりが返せない。
理由は分からない。
でもマスターはいない。
時間は今、午後2時45分ころ。
もしかすると、何らかの理由でマスターは小銭を確保するために銀行にでも出かけたのかもしれない。
「どうかしましたか?」
途方に暮れた様子の私を見かねてか、男性が心配そうにそう言った。
「あ、いえ。ちょっと小銭が見当たらなくて・・・でも、少しお待ちください」
もしかすると二階にある私の財布の中になら、多少の小銭はあったかもしれない。
当面をしのげるかは分からないが、中身を調べてみる価値はある。
そう言ってきびすを返しかけた私の背中に、この男性は手を伸ばすような仕草を見せ、「ちょっとちょっと」と言った。
そこで私はつかの間後ろ髪を引かれたように、男性の方を振り向いた。
相変わらずニコニコしている男性は、ちょいちょいと開きっぱなしのキャッシャーを指で示した。
あちゃ、と私はそれをそっと押し閉じた。
「おつりがないんですよね」
男性はそしてそう言った。
私はばつが悪い思いで頷くしかなかった。すると、この男性は

「おつりは要りませんよ」

と淡々と言った。
しかし、それでは値段の倍以上を受け取ってしまう。
私としてもそれはさすがに申し訳なさ過ぎる。
むしろ、ここは私がマスターなら事態はこちらの不手際でもあるので、いっそお代をサービスしてしまうところかもしれない。
でも私自身はしがない住み込みの店員に過ぎないので、そんな判断をすることは出来ない。
八方塞がりだ。
私が途方に暮れていると、

「おつりは要らないのですが、お願いがあります。今ここで、紙でもタブレット端末でも何でもいいので、私の絵を描いてくれませんか」

男性は突然、そんなことを言った。

私は一瞬言葉の意味が分からなかった。
私が、この男性の、絵を描く?
「このまま、私の立ち姿を描いてほしいんです。マスターに渡したいと思いましてね」
男性は淡々とそう続けた。
やっぱりよく意味が分からない。
この男性はマスターの知人なのだろうか?
でももしそうなら名前を告げておけばいいのではないだろうか?
ぐるぐると思考が入り交じる中、男性はさっさと店内に移りやや広い場所を見つけ「ここがいい」なんて呟きながら、杖をついたまま私の方をまっすぐ向き直った。
いやも応も、うんもすんもなかった。
私は伝票を挟む小さな画板に裏返した伝票用紙を挟み、促されるままに鉛筆を持ってそちらへ向かった。

「男前に描いてくださいよ」

男性はそう言って、からかうように胸を張った。
何が何だか分からないまま、私は高校生の授業の時以来であるスケッチの課題にほんとうに唐突に取り組むことになった。
そういえば、と鉛筆を走らせながら私は思った。
伝票には男性の足と、床につかれた棒が描かれている。
そこが絵の中心だと私が思ったからそこから描き始めたわけだけど、普通は顔とかから描くものなのだろうか?
でも、立ち姿の男性は杖が体によくなじみ、まるで3本目の足のようにすら見えたので、気がついたらそういうふうに描き始めていたのだ。
ステレオ越しに店内に流れていたピアノの音が止まると、小さく雨の音が聞こえた。
静かな店内にはその中で、私が鉛筆を頼りなく紙の上に走らせる音だけが響いている。
私は絵が得意なわけではないけれど、何となく、本当に何となくだがこの男性の立ち姿は描きやすく思えた。
なんて言うのだろう、支えられて描かされているというか、筆を進められているとでも言うのか。
私のそんな不思議な感覚を知ってか知らずか、男性はニコニコしながら時々頷いたりしている。

「――――出来ました」

そして約15分後、私の力作は完成した。
ほほう、とその男性は言いながら私の元へとやってきた。そしてひょいと脇から完成したモノをのぞき込んだ。
正直、出来はひどいものだと思う。
漫画的でも写実的でもない。
中途半端にリアルな線を狙って、でもそれに及ぶだけの筆を私は持ち合わせず、単純に素人が描いた立ち姿込みの似顔絵。そこにあるものはそれ以外の何物でもなかった。
だけど、この男性は興味深そうに何度も頷いて、

「すばらしい。これで十分です」

と呟いた。