霧雨堂の女中(ウェイトレス)
何というか、朴訥とした声が階下から聞こえた。
お客だろうか?
いつからいたんだろう?今来たの?それとも少し前から?
それでもきっとマスターが応対をしてくれる・・・というか、するはずなんだけど、そこで私の中に不安がよぎる。
そもそもマスターが霧雨堂の中にいれば、この『誰か』がこんな声のかけ方をするだろうか?
否。
あの店内で、マスターを見落とすことはあり得ない。
「すいませぇん」
さらに重ねて、さっきと同じ声がもう一度店内に響いた。
でも、と私は思う。
多分、でもきっと、このお客さんはお勘定に違いない。
だけどマスターがいれば当たり前にレジを打つだけだ。
なのに。
あのあんぽんたんはどういう理由で事情なんだか全く分からないけれど――――このお客さんを残して、いずこかへ旅立っている可能性が非常に高い。
『いやいやあり得ないでしょう?』と思うのは私の勝手。
でも現に階下からはそういう声が聞こえている。
私が応対できればいいけど、何しろ私は絶賛インフルエンザB型で床に伏せる身だ。
有名極まる季節性の感染症だ。
たったお勘定の受け渡しとはいえ、お客様の前に立つことなんて出来るはずもない。
そんな私の内心を知ってかのように
「参ったな」
なんて呟く声が聞こえる。
静かなばかりのピアノ曲もこういうときには考え物だ。
頭痛とは別の理由で私は頭を抱える。
さっさと、
戻って、
来い!!
思わず恨み節のように私はマスターのにやけ顔を想いつつ、心中で呟く。
なのに店内からはピアノ曲のほかには何も聞こえない。
ドアが開く音も、『やあやあすみません』とか言う申し訳の台詞も。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名