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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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霧雨堂。
『きりさめどう』だろう。
その横に書かれたコーヒーカップの絵が、端的にここが喫茶店であることを示していた。
宿の確保が急務なのは分かっているが、ものは考えようで、例えばその為の手段としてこのお店に入って店長と話をし、適当なホテルを教えて貰うのも一つの方法だと私は思った。
そうと決まれば、話は早い。
私はその霧雨堂の扉に設けられた長さにして50センチ、太さにして4,5センチメートルはある太い木の取っ手を掴み、手前に引いた。
きいという音ともに、扉は開かれ、薄暗い店内が私の視界の中に広がった。
まずそこで私の眼を引いたのはカウンターだった。
そこには背広を着た、雰囲気から中年の男性とおぼしきお客さんが座っていて、その前にマスターと思われる今時珍しいのではないかというような白のカッターシャツに黒のベストを着た男の人が立っていた。
二人とも、私が扉を開くと申し合わせたようにゆっくりとこっちを向いて、眼を丸くした。
私はそれで、眼を丸くし返した。
それに他意があったわけではない。
ただ、カウンターに座っていた男の容貌が私の眼を引いたのだ。
男は、鼻が大きかった。
いや、大きいなんて言うモノじゃない。
巨大だった。
ほとんど肌色のバナナが一本眉間からぶら下がるような、私が今まで見てきたあらゆる人の鼻の大きさを遥かに凌駕するような巨大な鼻がそこにぶら下がっていたのだ。
正直、私は驚いた。
しかし、本来の目的を忘れるほどのものではなかった。
だから私はそっとそのお店の中に足を踏み入れた。
そして、カウンターのその男の人からスツールを一つ外して右の隣に座った。
「いらっしゃい」
そんな気の抜けた声を出したのは、マスターと思われる男性だった。
こちらは黒い前髪をたらんと垂らした優男風と言えなくもない細身の男性で、年齢は見たところ30才から40才程度という所だろうか。
私が何気なく店内を見ると、お客はその鼻デカ男が一人だけで、他には誰も居なかった。
私はあまりじろじろとその男のことを見るのは失礼かと思ったのだが、逆に男とマスターは虚をつかれでもしたかのようにずっと私の方を見ていた。
私はお店に来て座ったばかりなのに、それで少し腰の据わりが悪くなり、さっさと目の前のカウンターに備え付けられたメニューを手に取り、最初に眼に付いたモノを

「カフェラテ、ホットで」

半ばそのまま読み上げて注文をした。
「あ、はい」
と、マスターと思われる男性はおよそお店の人間としてあるまじき上の空の返事をして、そのままカウンターから奥のキッチンへと消えていった。
カウンターの鼻デカの客は、私の方を見ている。
私はそれで
「こんばんは」
と出来るだけにこやかな笑顔を作りながらその人に話しかけた。
すると、その鼻デカさんは戸惑ったように眉間に皺を寄せたかと思うと、急に取り繕ったような笑顔を浮かべ
「あ、ああ、こんばんは」
とこれまた戸惑ったような挨拶を返してきた。
そして急に何かを考え込むような仕草になり、私から眼を放したので、私もそれを潮にしてその人から目を逸らした。
店内にはジャズのような音楽がかかっている。
その音楽にはさあっというノイズが混じっていたので、ふとカウンターの中を見てみると、驚いたことにそこにはレコードプレイヤーが鎮座しており、LP盤を乗せて33回転と思われるゆっくりした速度でターンテーブルを回していた。
そんな様子から、瞬間私はここが『趣味のお店なのかな』と思った。
しかしこんな田舎町で趣味のお店をするのは並大抵の財力では無理だ。
だからきっと、昔からこのお店はこうなのであって、今もそれが続いているに過ぎないのだろう。
静かに時間だけが過ぎていく。
すると、カウンターからキッチンに続く背の高い暖簾の向こうからマスターが顔を出した。
その手の上には小さなお盆と、さらにその上に湯気を立てる白いマグカップと、スティックシュガーが乗せられていた。
私の向かいまでやって来ると、そのお盆の上からマグカップを下ろし、スティックシュガーを恭しく差し出して
「どうぞ」
とマスターは言った。
カフェラテはクリーミーな泡がマグカップの上に浮かび、とても美味しそうだった。
私はそれで最初は砂糖無しでそのカフェラテを一口飲んだ。
熱々のカフェラテは、のどごしの瞬間にふわっとするコーヒーの香りを鼻の向こうに抜けさせながら、ミルクの優しさがそれを追いかけてくるみ込んだ。
柔らかくて熱くて、そして何よりも、優しい味わいだった。
私はそれで眼を丸くして、さらにもう一口飲んで、それから今度はスティックシュガーを開けてから三分の二ほどをその中に注いだ。
軽くスプーンでかき混ぜて、一口を口に含む。
すると、優しいクリーミーな味わいに柔らかさと安らぎを足したかのような甘さが加わった。
美味しい。
私は素直にそう思った。
少なくとも、私が生きてきて味わったあらゆるコーヒーよりもそのお店、『霧雨堂』のコーヒーは、カフェラテは、牛乳なんていうコーヒーの味わいに対してむしろ野暮と言えるものが加わっているにも関わらず、ダントツに美味しかった。
だから、
その時私は油断した。
油断した結果、涙が溢れた。
何故だか理由なんて自分でもよく分からない。
クリスマスイブの日に、一人電車に乗って、バカみたいな旅に出て辿り着いた先で、美味しいコーヒーにありついたことで涙を流す自分がとんでもなく滑稽に思えたことだけは確かだった。
すると、鼻デカさんが静かに立ち上がり、何枚かの小銭をカウンターに置くと、言葉もなく木製の扉に向かって歩いて行き、店を出た。
お店の中にはそして、私がひとりだけになった。
流れるのは静かな音楽。
ジャズのトランペットと、ピアノの調べだけ。
私はそのアレンジで最初気がつかなかったが、耳を澄ませれば、それが『聖者の行進』であることが分かった。
私は静かにその音楽に耳を傾けながら、マグカップを口元に何度か運び、浸った。
浸ったのはこのお店が持つ雰囲気で、流れる『聖者の行進』が醸し出す優しい潤いと、同時にそこにある渇きで、私はふとその時このお店の名前に思い至った。
『霧雨堂』
霧雨。
霧のようにきめの細かい雨。
近づけばきっとしっとりと包み込むのに、やって来るまではずっと乾いて、そこに在ることすら知らせない。
その時、私の脳裏の思いついたのは、私のたかだか20年程度の人生の中で、きっと一番馬鹿馬鹿しいことだっに違いない。
でも、
私の口を突いて、その言葉は出た。
「マスター」
私の言葉に、その人は『うん?』とでも言うかのように首を傾げてこちらを見た。