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霧雨堂の女中(ウェイトレス)

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 彼の言葉は私に繋がった。
 私はその言葉に従い、命を絶つ代わりに全力で逃亡したんです。
 自分がそれまであったはずの場所から、築き上げてきた人生から、あらゆるしがらみから、逃れられないと信じていた『続く明日』という名の呪いから。

 癒えるまでには時間がかかりました。
 しかしどうにか私は帰ってきた。
 帰ってきたので、彼にお礼が言いたかった。
 何しろ、彼はコーヒーのお代も受け取らなかったのですから」

彼は蕩々とそう言葉を紡いだ。
私はその間、静かに聞き続けた。
彼のカップが空になっていることに気がついたので、私が『もう一杯注ごうか』と考えた瞬間、彼の右手がカップを覆い、左手がそっと顔の前で左右に振られた。

「もう結構です。
 すみません、長話になりました。
 コーヒー代を払わせてください。
 『三杯分』を、是非」

そして彼は私にそう言った。
彼の話の真偽は知れないが、嘘をつく理由もないだろうし、疑うべき理由も私にはない。
あえて言うならば、あのあんぽんたんのマスターにしては出来過ぎな話な気がしたくらいだ。

私はホット三杯分を請求し、彼はそれに淡々と答えた。
いや、私の勘違いでなければ、むしろ彼はそれを支払う間どこか安堵しているように見えた。
それはコーヒー代の支払を通じて、長く続いた借りをようやく返していることにほっとしているような。
ささやかな印象論に過ぎないが、彼の微笑みや仕草、お金を授受する時の指の動きなど、あらゆる様子から私にはその感じが強くそこに込められているような気がしていた。

彼は来た時と同じように『穏やかさの権化』と言った仕草でスツールから腰を浮かし、そっと出入り口のドアへと向かった。
私は何となくその背中を見送った。
そのまま去っていくものとばかり思っていたら、不意に彼が首を傾けて丸眼鏡の奥に優しげな輝きをたたえた瞳を私に向けた。