霧雨堂の女中(ウェイトレス)
偶然入ったこのお店で、カウンターの向こうにいた彼は、私に気づくと会釈をして『いらっしゃい』と言いました。
実はそのとき既に私は違和感を覚えたのですが、とっさにはそれが何であるか分からなかった。
今のように、こうしてスツールに腰掛けて、居心地の悪さのようなモノを感じながらメニューを開いた時に、私ははたと気がついたんです。
私には――彼の気持ちや思いが一切分からなかったのですよ。
不思議に思った私が彼のことを眺めていると、彼はそのままコーヒーを作り始めました。
今、そこにあるのと同じ形のサイフォンだったと思います。
全く同じものかは分かりませんけどね。
結局彼は私に注文を聞くこともなく、頼みもしないコーヒーを目の前に差し出してきました。
何も言わずにです。
私はそれで、一口啜ってみました。
すると、驚いたことにその味は、私の気持ちの『反対側』を正確に表現していたのです。
僅かな酸味と、胸をくすぐるどこか懐かしい豊かな香りと、遠く望む安らぎがそこにありました。
『泣いてはいけない』と思いました。
大の男がたかがコーヒー一杯のために、涙を落とすようなことがあってはいけないと。
だけど、私は堪えきれなかった。
彼が注いでくれたコーヒーにはそんな『力』があった。
だから私は一粒だけ、自分に涙を落とすことを許したんです。
彼は私のカップにもう一杯コーヒーを注いでくれました。
そして、私に告げたのです。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名