霧雨堂の女中(ウェイトレス)
女中と逢魔ヶ刻の少女
またあの子が来ている、と思った。
でもそれは変な意味ではなく、私としては何というか、嬉しいことなのだ。
だって私はあの子が好きだ。
出されたご飯を美味しそうに食べる。
幸せそうな顔が好きだ。
お子様ランチの旗をむしり取り、オムライスのケチャップを口の端にべったり付けてもまるで気にせず、本当に美味しそうに食べてくれる。
少なくとも、飲食業で働く人間にとっては、好ましい。
気分が良い。
だから、私はあの子が好きだ。
だけど、ひとつだけ気になることがあるとすれば、
『あの子、いつも違うヒトとこのお店に来ているなあ』
と言うことくらいだろうか?
「まあねえ、地主的なモノだとも言えるしねえ」
私の背後でそう呟いたのは、いつの間にかそこに立っていたマスターだった。
距離が近い。
私は振り返るフリをして、そっと右肘を鳩尾に叩き込んだ。
げほ、とマスターはむせて、私はそれで自分の眼鏡のフレームを右手の人差し指と親指でつまみ、押し上げた。
「すみません、マスタ−。真逆真後ろに立っているとは思わなかったもので」
私は済まなそうな声を作ってそう言った。
「君、今明らかに私の台詞からワンテンポ以上置いて肘が来たんだが」
マスターはそう言って胸の辺りを両手でさすった。
「気のせいですよ」
私はだからそう応えた。
するとマスターがそっと右手をわたしの方に差し出した。
意味が分からず、私が首を横に一度傾げると、
「君の手を貸してくれ。僕の胸をさすって欲しい」
苦しそうに眉間に顔を寄せてそんなことを言い出したので、私は自分の右手を差し出して――
マスターの額にそっと当ててみた。
「――熱は、なさそうですね」
私がそう言って右手を降ろすと、マスターは大仰にため息をひとつついて、肩をがっくりと落とした。
まあ、ここまではお客様に見えないようにして繰り広げられる私たちのコミュニケーションのようなものだ。
マスター自身はともかく、少なくとも、私はそう思っている。
しかも、割と本気で。
私はそっとテーブル席に座るふたり組を見る。
ひとりはおかっぱ頭の赤い着物を着た女の子で、何というか、座敷わらしのテンプレートみたいだった。
対するはツーサイドアップヘアの小柄な女の子で、幼く見えるが端々に感じる雰囲気から、おそらくは高校生くらいだろう。
「地主的なモノ?」
私はそこで、話題を元に戻した。
マスターはと言えば、キッチンに戻りサイフォンの用意をしている。
ツーサイドアップの女の子が注文したコーヒーを淹れているのだ。
「少し薄めに作ってあげた方が良いと思います」
私はその少女を見て、そうマスターに声をかけた。
「奇遇だね、僕もその方が良いと思ってた」
マスターがそう答えて、また私の所に戻ってくる。
私はもういちどテーブル席のふたりに眼を戻す。
地主的な、モノ?
雰囲気的に和装の子がそうなのだろうか?
今時このご時世、和装のヒトは少なく、ましてやそれが子供であればなおさらで、それなりの家庭の子供であることは私にも想像がつくのだが、それ以上の具体的な生活環境などとなれば私の貧相な想像力ではまるで及ばない。
でも、その割には、と私は思った。
あの子はいつもお腹をすかせてここに来るような気がする。
だから、いつでも美味しそうにモノを食べてくれる。
しかも、連れられてくるのはいつだって家族ではなさそうで、だからこそ私にはあの子は色んな謎をはらんだ不思議な存在に見えた。
一体どんな理由で、そんなことになるのか?
あの子は一体誰で、どういった存在なのか?
そんなことを思っていると、サイフォンがコポコポと音を立てて、コーヒーの良い匂いがカウンターの中に濃く漂い始めた。
ふと見ていると、ツーサイドアップの方の子と私の眼があった。
しかしその子は慌てたように私から目を逸らして、和装の子に視線を戻した。
――なんなんだろう?
でも、詮索は表だってしないのが客商売の鉄則だ。
マスターが用意したコーヒーのカップをお盆に載せ、私はツーサイドアップの子のところに歩いて向かった。
テーブルにそれを降ろす。
カウンターの向こうに歩いて戻りながら、私はちらりとその子がシロップとミルクをその中に入れ、一口飲んだときの顔を盗み見て、微笑んだ。
だって――彼女は眼を丸くして、その次の瞬間に、口の端を柔らかく上げ、力まず優しく導かれるように微笑んだからだ。
そう、つまりは、いつものように。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名