花契り
花契り
福井と岐阜の県境、白山に連なる奥越の山は深い。
春になっても山並に雪は残るが、新芽に覆われた山は昼寝する赤牛のようで、赤みを帯びて膨らみモッコリして柔らかい。山のあちこちで、こぶしや山桜、桃やツツジが一斉に花開いて、山全体が春の生命を合唱する。春風は絹のように柔らかく、甘い香りを運んで春風駘蕩、ウットリした気持ちにさせる。
夢見心地で下山しているとき、大きなしだれ桜に包まれた一軒家を見つけた。ダム湖の高台にあったから、そこだけ沈まずに残ったのだろう。濃緑の湖水と青い春空に淡い緋色の花雲が映えて、桃源郷の美しさである。今が盛りと咲き誇っても、見る者も愛でる者もいない。通りすがりの自分が眺めてやらねばとKは思った。
ダム沿いを歩いて急坂を上がったところに、しだれ桜の茅葺き屋があった。家の前は広い畑地で柔らかな春草が生い茂り、スミレやタンポポやレンゲが咲いている。昔、子沢山の時代があったのだろう、畑地の一角に梅や桃、ナツメや柿が植えてあり、それらを見下ろす雲のように満開桜が咲き誇っていた。
オオ!余りの見事さに、Kは夢中になってシャッターを切った。その時、風も無いのにしだれ桜がザワついた。何かが走った気がした。何だろう?
茅葺き屋に近づくと、玄関が少し開いている。誰かいるのだ!?恐る恐る声をかけた。
「失礼します。誰かおられますか?」
「・・・」
耳を澄ますが応答がなく、シ~ンと静まり返っている。念のために家の周りを回ってみると、アッ!桜の巨木の根方に誰かいる。
満開桜の枝垂れに隠れるように着物姿の女が立っていた。
一
「こ、ここの方ですか?」
女は縦(たて)縞(じま)絣(がすり)を着て山菜籠を抱えている。どこか暗い感じで訝(いぶか)るように尋ねた。
「・・こんな山奥、何用でしょう?」
「あんまり花が見事なもんだから見させてもらおうと思って・・それに山から下りてきたばかりで喉が渇いてます。お水をいただけませんか?」
細面の女の目が和らいだ。切れ長の目が愁いをたたえている。
「お安いご用ですわ。すぐ持ってきます。」
女は家に入ると縁側を開けた。茶盆を差し出しながら座るように勧め、
「久しぶりに帰って来たので行き届きませんけど、どうぞ召し上がれ。」
華奢な手といい、色白の顔といい、丁寧な仕草といい、垢抜けている。Kは琥珀色のガラスコップを手にした。
「有り難う、頂戴します。」
女が言葉を足した。
「それ、梅酒ですけどよろしいですか?・・そこの梅で作ったものです。」
「いいです、いいです。頂きま~す。」
金色の梅酒をひと息で飲み干した。濃厚な梅エキスが胃の腑に沁みる。
「旨い、旨い、うめ~酒!」
目を三角にして戯(おど)けて見せた。女は嬉しそうに笑った。目元に小じわが寄った。三〇過ぎだろうか。
「何ならもっといかがです?父が仕込んだのが一杯あるんです。」
立ち上がると奥の部屋から酒瓶を持ってきた。
「うめ~え、うめ~酒が頂ける!」
パン、パン、柏手打って拝んで見せた。女は朗らかになり、Kは調子に乗って何杯もあおった。強烈なアルコールと蜜のとろみが全身に回る。Kは酒好きだが強くない。疲れと空腹が手伝って眠たくなった。
「・・ウィ~ちょっと失礼~」
縁に上がるやそのまま寝込んでしまったのである。
どれくらい眠っただろう。
目を醒ますと仄暗い囲炉裏端で寝ていた。女が掛けてくれたのだろう、毛布が掛けられている。戸外は春の宵で紫に染まり、囲炉裏火が室内を橙(だいだい)色に照らしている。パチパチ焚き火がはじけ、昇る煙が黒光りの梁にまとわり天井に吸われていく。トントン、まな板の音が聞こえ、香ばしい焼き物の匂いが漂っている。
子供の頃に還ったような懐かしさを覚えた。
女の足音が近づいたので眠ったふりをした。身体を揺すって起こそうとする。
「ちょっと、風邪引きますよ。起きて下さいな。・・お風呂に入って食事にしましょうよ。」
えっ!?もしかして泊めてくれる!Kは驚いて飛び起きた。
「と、泊まっていいんですか!?」
割烹を羽織った女が困惑したように頷いた。
「・・だって、終バスが出たんですもの。」
白い肌が瑞々しく、うっすら紅を差している。
「あ、有り難うございます。早速、お風呂頂きま~す。」
意外な展開に舞い上がって、勢いよく五右衛門風呂に飛び込んだ。アチッチィ!悲鳴を上げて風呂釜から飛び出た。冷えた身体にお湯が熱湯のようであった。
「火傷しないでよ、気をつけてね。昔のお風呂だから。・・私はもう済ませちゃった、ユックリ入ってね。」
おもむろに足を差し入れ、湯に馴染ませてから身体を沈めた。緊張していた筋肉がほぐれ、血の巡りが良くなり、気持ちが朗らかになった。手ぬぐい頭で、Kは流行の歌謡曲を歌ったのである。
上機嫌で風呂から上がると、女が浴衣を差し出した。
「はい、浴衣。」
「浴衣、浴衣、いうたかい?」、「温か、温か、あったかい?」
陽気になると、ダジャレが勝手に口をつく。
「モウ~、面白い人!」
女は身体を捩って笑った。
「こんなに笑ったの久しぶり。」
初対面の沈んだ印象は微塵もない。うち解けた表情といい、手馴れた仕草といい、久しくつき合っている気がした。
囲炉裏端に女の手料理が並んでいた。
「どれも家の周りで採ったものばかり、お粗末だけど召し上がれ。それにお酒もありますよ・・私も飲みたいわ。」
酒を注ぐと旨そうに飲み干した。盃に指を添えて飲む仕草が美人画である。白磁のように艶やかな美肌がピンクに染まっていく。
「いい飲みっぷりだね、もう一杯。」
「頂きま~す。お風呂に入ったから喉が渇いちゃった。これに頂戴!」
女は茶碗を差し出した。Kも負けじと飲んだが、女の飲みっぷりにはかなわない。茶碗酒で酔っ払ったのか、女はフラフラと立ち上がった。肌けた胸元を煽りながら、
「暑い、暑い。・・ねえ、何か歌って下さらない。踊りたいの。」
戸棚から歌謡集を取り出した。
「お歌が上手でしょ、歌って下さらない。」
歌の好きなKは喜んで手を打った。
「お安いご用だ、任せなさい。しだれ桜の花踊り。こんな夜はまたと無い。それではジャジャ~ン!」
女は襟を正し背筋を伸ばした。Kは声調を整えると『祇園小唄』を歌った。
「♫月はおぼろに東山~かすむ夜ごとのかがり火に~夢もいざよう紅桜~しのぶ思いを振袖に~祇園恋しや~だらりの帯よ♫」
さらに『隅田川』、『東京音頭』と続けたが、酔った風情はどこへやら、目線といい、手の振りといい、すり足といい、静々と舞う姿は芸者そのものであった。
ひと息つくと、女は新しい曲がいいと石川さゆりをリクエストした。圧巻は『天城越え』であった。
「♫隠しきれない移り香が~いつしかあなたにしみついた~誰かに盗られるくらいなら~あなたを殺していいですか♫」