ろじゃく
今何丁目を歩いているのか路尺自身にもわからない。でも、どうやら大通りに沿って歩いているらしいことはわかる。地下街とつながっている階段。その地上脇に煩雑に置かれる自転車。信号の前で張り込む若い店員。排気ガスと人いきれで薄汚れた空気。
路尺はただ、ふらつく。
――おれは必要とされてこの職についたのではなかったらしい。おれの能力も、見た目も、やる気や誠意すら、奴等にとっては取るに足りない。面接で言ったあの言葉やこの言葉、筆記試験に認めた文章も、詰らないものでしかなく、唯若いことのみが奴等の興味を引く点だったのだ。
ふと見ると、体にはどこで引っ掛けてきたのか、ビニルの小さな欠片や千切れた植物の葉などがついている。
払う気にもなれない。
――役場の金が減ればそこの人間の給金も減る。結局、役所の人間達の我が身かわいさの保身に、おれは振り回されたのだ。
街時計を見ると、午後の十一時を指す所だった。
――なのにおれは、それを実力で勝ち取ったものだと、勘違いして。どの面を下げて人に誇れるというのだ。まるで、ばかばかしい話じゃないか。
気がつくとビル風の強く吹く路地裏に、路尺はいた。
――おれは、おれは、いつか勝つのは、ありえないことだったのか。
路尺は、肉体的にも弱かったが、精神的にも弱かった。異常なまでの治安維持率の高さのことを忘れ、自身の努力をしない姿勢を悔い、恥ずかしく思い、権力に操られたことを嘆いていた。自身の利き手を見て、なんて自分は愚かでちっぽけなんだろう、と肩と頭を落とした。
ふと、何かが聞こえた気がした。聞こえ間違えではない。耳を澄ます。
物が倒されたりする音や、複数の足音が遠くへ行ったり近くへ来たりしている 。はっ、はっ、という、荒い息遣いと、うぇあ、うぇあと、とにかく邪な男の声が聞こえる。荒い息遣いはその音の細さからして、女だ。
どうやら、午後十一時の路地裏で、女性が暴漢に襲われそうでいるということらしいぞと、路尺は察した。
路尺は音の方向を聞き分け、行く手に見える十字路の交点まで向かい、右の方を覗いた。
すると、四人の男達が、今にも女性に掴みかかろうとして、しかし女性はそれを必死に振り払って逃げていた。
助けねば、と路尺は思った。目の前で今、犯罪が起きようとしている。警備に時間などは関係ない。
路尺は男共と女性の間に入るために飛び込んでいった。だが飛び込んだのは、つもりで終わった。体が、動かない。
本人は分かっていないが、実は先の話での衝撃が、事件の火種を仕事するときと意識する路尺の体を、無意識に強張らせていたのである。
男の怒張声と女性の叫び声だけが妙に強く響き伝ってくる。
数秒の間路尺は、体が動かないことに動揺していたが、ふいに上司の話を――権力者達の保身に振り回されていたことを、思い出した。
そういえば治安維持に務めるとき、一度でも悪党を組み伏せた試しがあっただろうか。おれがこの女性を助けるなどと、そんなことが叶うのか。
目の前の現実が遠くに小さく見えた。おれは今まで、こんな恐ろしい場面で、無法な輩共相手に、子犬が武張るかのように吠えていたのか。
路尺はどっ、と恐怖に包まれた。踝を返し、その場から走り去った。
「あ! ちょっと!」と言う声が、遠くから空気を伝って響いてくる――それは、女性の気の強い抵抗を示した言葉ではあろうが、路尺には自身への非難にも聞こえた。
ずきりと、何かが刺さる気持ちがする。
しかし路尺は、この場を一瞬でも早く離れたかった。路地裏を出た。逃げた事実に、路尺は自分でひやりとする。
遮二無二走った。働き疲れた大人達の憩いの場が集まったビルの看板、排気ガスを撒き散らしながら荒く走っている車のライト、蛍光灯の光達が、目に眩しい。次々と目に入ってくる光が妙に鋭く、居場所のばれた盗人のようだ。
押し返すような向かい風が、吹き出た汗を凍らせる。路尺は走ることをやめた。
「あの女性には済まないことをしたと思うが、もうこの事は忘れよう」
路尺はあきらめた。
未だ、あの女性は助けられなければならないことも、それをするべきであったのは自分だということも、分かっている上で、逃げる手段として走ることを止めた路尺は、既にもう全てを投げ出していた。
「しかし」という言葉が不意に口をついてでてきた。
――しかし、なんだ? おれは、何に対し、しかし、なのだ。おれはもう、あきらめたんだ。自分も、仕事も、正義もなにも無関係なはずじゃないか。
いらいらが急速に湧き上がり、髪を掻きむしったり、体に爪をたてた。服を遮二無二振り回しポケットを全部裏返した。チリごみや領収書に混ざって、消しゴムがぽとりと、落ちてきた。
それを見ていると、予期せず、試験勉強に没頭していた頃が思い出された。路尺は、負け続きの自分を変えるため、警備の職を目指したのだった。街を、誰かを守るということに責任が生まれれば、自分は変われる。そう思って、夜を日に継いで机に向かっていたのだった。
路尺は地面に落ちた消しゴムを拾い、張り紙の貼ってある壁に投げつけた。消しゴムは壁に跳ね返って、張り紙は破れた。
おれは気になっているのだろうな、あの女性を助けなかったことを。だが、どうでもいい。
路尺は再びふらふらと歩き出した。どこに行くのかは、わからない。
あの女性はどうなっただろう。四人の男達に捕まってしまったのだろうか。いや、どうでもいい筈だ。おれは権力に遊ばれたのだ。
願いが叶ってから三年、昨日まで、どんな悪党も懲らしめる事はできなかった。それでも、何か事件性のある場所には必ず駆けつけた。考え得る限りの手で犯罪を止めようとしてきた。手を尽くすも全て失敗に終わりこそしたが、妙なめぐり合わせにより、全ての悪党達は目的を遂げることができずに逃げていくのだった。
街は路尺が警備を始めて以降、犯罪が企てられ、全て未遂に終わり、一件の実害もない。そんな街になった。
おれは、いつのまにかそれに満足していたし、納得もしていたはずだ。悪党に勝てなくても、街を守ることさえできればいい。勝ちは、いつか来るときを首を長くし待てばいい、と。
そんなことを思い出しながらも、巡邏の仕事を止めることを考え、次の仕事は何にしようかと前向きでいる気持ちでいるのに、女性が襲われる映像がありありと頭に浮かんできた。
現実的すぎて、思わず四、五歩走ってしまった。
混乱が、佳境を迎える。
路尺は、女性を助けなければいけない気持ちと忘れてしまう気持ちで揺れていた。
足の赴くままに体を従わせることにした。
路尺は、歩く道すがら、辺りを見回していった。
男女が仲良く手を繋ぎ歩いている。女は、仰ぐように見上げ男に顔を近づけている。
居酒屋からスーツ姿の人々が出てきた。酔いつぶれたサラリーマンが、同僚か上司か部下だかに肩を支えられている。見送る若い女店員に、まだくるからねえ、と呂律怪しく唸った。
――強盗が入りゃあ、またこれるかなんて、わかんねえだろ。
路尺は、大通りを一本抜けた道に入る。