花は咲いたか
第五章
伝習歩兵隊の射撃訓練は、実弾による訓練を残すのみとなった。
仕上げに、しゃがみ射ちと胸壁から銃だけを出して撃つ方法を重点的に行うよう、うめ花は土方から言いつかっていた。
少ない兵と少ない弾で、圧倒的に数で上回る新政府軍に勝つとしたらいかに効率的に敵を倒すか、にある。それには命中率をあげて無駄弾を撃たない、それしかなかった。
蝦夷が北の果てに位置する土地であっても、もう雪は降らないであろう季節に移りつつある。
誰もが春になれば戦いが始まることは知っているし、それが最後の戦いになることはわかっていた。
ここのところ、軍の上層部は軍議で五稜郭に詰めることが多い。
つい先刻もフランス軍事顧問のブリュネらとの軍議を終え、訓練に顔を見せたのが大鳥と土方であった。
Γ土方君、うめ花君は良くやっているね。辛いことがあったばかりだというのに健気なもんだ」
土方は大鳥のこの手の話には返事をしない。大抵がひとり言で自分で納得しているから、返事をしたこちらが馬鹿を見るからだ。それにこれから実弾による射撃訓練が始まる。土方にも一抹の不安があった。果たして命中率はどのくらいなのか。
戦場と同じく穴を掘り土を穴のまわりに盛り上げて胸壁を作っている。的は距離の異なる物をバラバラに配した。
隊士らの顔にも緊張感が浮かんでいる。
大鳥が号令をかける。
Γ撃て!」
一斉にあがる銃声とたちこめる硝煙。的を隊士の一人が確認しに走る。そして的に当たった数と撃った弾数で確率を計算する。
うめ花は隊士らと穴に入り、にわか仕立ての胸壁に銃を立てている。うめ花の命中率は百発百中だった。
全身を泥だらけにして、頬にまで硝煙の煤がこびりつく。
それでもこの訓練に必死であった。雪は降ってももう積もることはない。春はすぐそこまで来ている。
ここまで一緒に訓練をともにし、一日の大半を過ごした隊士らに思うのは一兵たりとも失うことなく無事で帰って欲しいという一念である。
そして土方だった。
この戦がどのような形で終わるのかうめ花には想像もつかないが、生きてこの先の時代を見て欲しいと思う。
まわりの状況と軍の上層部の会話から、例え降伏したとしても土方に明日があるという見方は少なかった。何故なら、土方が京で新選組を動かしていたその人だからだ。
何をどうすればなどとうめ花には考えもつかないが、伝習隊が勝利できれば土方の命もある。
それを思うと訓練には自然と熱が入る。一番いいのは自分がこの戦に行って戦うことだが、それを誰も許しはしないだろう。
土方がこの世に生を受けた時に背負って来た役目、この戦がその到達点になるのだろうか。
実弾による射撃訓練は、命中率からみてなんとか許容範囲となってきた。
フッと気が抜けたのだろう、うめ花はめまいをを感じてこめかみを押さえた。胸壁から乗り出していた体から力が抜けていく、まわりの背景がぐるぐるまわって穴の底にうずくまった。
Γあっ、先生っ!」
という声が遠くで聞こえた。
Γどうした?」
と土方が胸壁から穴へ飛び降りるのが、霞んだ視界に映った。
次にパチパチと燃える薪のはじける音に気づいた、あたりはもう暗い。
自分の寝台に寝かされ、おでこに濡れた手拭いを感じて手を伸ばす。
Γ目が覚めたか?」
土方の声だった。
重い身体を起こそうとすると関節が痛む、喉の渇きもひどかった。
Γ風邪を引いて無理をしたな、熱は引いたようだが...まだ寝ていろ」
部屋の隅に置かれた椅子から立ち上がった土方がゆっくり近づく。
Γ私...どうしてここへ?」
喉がひりひりする。声が引っ掛かりうまく言葉にならない。
Γ俺が運んだ、重かったぞ」
Γえ...ウソ」
Γ本当だ、具合を悪くしてうずくまっているくせに銃を離さん。仕方ないから銃ごと運んだ」
笑いながら寝台の横を指した。銃が立てかけられている。
Γありがとうございます、重いのにご迷惑をおかけして」
それだけ言うと寝台から足を降ろした。
Γどこへ行く、寝てろ」
Γ喉が渇いて...水を」
Γいい、俺が取ってくる」
土方はうめ花を寝台にとどめ、自室のストーブにかけられたヤカンから湯を汲んできてくれた。
(部屋の間の扉が開けっ放し、だから薪の音が近くで聞こえたのか...)
まだ頭がぼーっとしていた。
湯呑みを両手で包むと湯気が顔をはい上ってくる。乾ききった器官がじんわりと潤う。
(そうだ、顔が煤や泥で汚れて...)
思わず顔に手をあて頬をこすると、
Γなんだ、顔なら俺が拭いたぞ」
とうめ花の横に腰を降ろす。慌てて横へ身体をずらす。それでも自分の腕が土方の腕に触れている。
Γそんなことまで、土方さんに」
自分がこの状況と土方に顔を拭かれたことにひどく緊張して焦っている。
Γ俺の女だ、あたりまえの事をしたまでだ」
Γ!」
いつもはその言葉も聞き流せていたのに、今は意識しすぎて胸が苦しい。
Γそれは方便で、冗談で...」
言葉がしどろもどろだ。
Γ確かにあの時は方便だったな。だが冗談なんかでなく」
両手で持ったままの湯呑みをすっと取り上げられると、目の前に暗い翳りができた。
その瞬間、唇に温かいものが寄せられた。
Γ女は目を閉じるもんだ」
そう囁くと、ゆっくり土方の唇が重ねられた。
頭の中で、何かがはじけ身体中をさざ波のような震えが寄せていた。
Γ悪い、俺みたいな先のない男に...」
うめ花は首を強く横に振ると、
Γ私が、その先をつくります」
土方自身の未来は自分でわかっている。
戦場で死ぬか、生き残って投降し新政府に身柄を拘束される。その後は近藤と同じ結末を迎えるはずだ。未来などあろうはずがない。
俺が近藤さんを救おうと勝安房守に願い、薩摩の西郷が近藤の処遇に温情を掛けろと意見をしてもなお、その命が救われることはなかった。
それなのに、女のうめ花が。
地位も権力もない若い娘が、土方の未来を作るという。
女というのはその場限りでものを言う生き物だったかと、昔の記憶を辿ってみる。
かつて通った京島原の遊女も祇園の芸妓も、不確かな明日を待つ儚いだけの女だったと記憶している。新選組の未来だけを考え生きていた頃、近藤さんはよく隊士らを連れて島原に通っていた。
俺は大勢で遊郭に繰り出すなどと薄気味の悪いことは嫌で一人で行ったが。女たちが寄越した大量の恋文とやらも始末に困って多摩へ送りつけたな、
Γふっ...」
そんなことを思ってふと笑みがこぼれる。
Γおかしいですか?」
Γいや...」
今、目の前にいるのは、不確かな明日を待つだけの女ではなく自分が明日を作ると言ってのける女だった。
うめ花の言葉を信じるわけではないが変わった女だとは思う。自分の人生の上っ面だけを通りすぎてきた女達と何が変わるかといえば、この戦の結末がわかっていながら、
Γ死なないでください」
と言わずに、
Γその先の未来を作る」
と言う。
おかしいですか?と尋ねたまま、うめ花は土方から目を離さずにいる。
Γ行けるところまで行ってみるのも悪くはないな」
そう答えた土方に、うめ花は大きな目で見つめたまま頷く。
Γ目を閉じろ」
伝習歩兵隊の射撃訓練は、実弾による訓練を残すのみとなった。
仕上げに、しゃがみ射ちと胸壁から銃だけを出して撃つ方法を重点的に行うよう、うめ花は土方から言いつかっていた。
少ない兵と少ない弾で、圧倒的に数で上回る新政府軍に勝つとしたらいかに効率的に敵を倒すか、にある。それには命中率をあげて無駄弾を撃たない、それしかなかった。
蝦夷が北の果てに位置する土地であっても、もう雪は降らないであろう季節に移りつつある。
誰もが春になれば戦いが始まることは知っているし、それが最後の戦いになることはわかっていた。
ここのところ、軍の上層部は軍議で五稜郭に詰めることが多い。
つい先刻もフランス軍事顧問のブリュネらとの軍議を終え、訓練に顔を見せたのが大鳥と土方であった。
Γ土方君、うめ花君は良くやっているね。辛いことがあったばかりだというのに健気なもんだ」
土方は大鳥のこの手の話には返事をしない。大抵がひとり言で自分で納得しているから、返事をしたこちらが馬鹿を見るからだ。それにこれから実弾による射撃訓練が始まる。土方にも一抹の不安があった。果たして命中率はどのくらいなのか。
戦場と同じく穴を掘り土を穴のまわりに盛り上げて胸壁を作っている。的は距離の異なる物をバラバラに配した。
隊士らの顔にも緊張感が浮かんでいる。
大鳥が号令をかける。
Γ撃て!」
一斉にあがる銃声とたちこめる硝煙。的を隊士の一人が確認しに走る。そして的に当たった数と撃った弾数で確率を計算する。
うめ花は隊士らと穴に入り、にわか仕立ての胸壁に銃を立てている。うめ花の命中率は百発百中だった。
全身を泥だらけにして、頬にまで硝煙の煤がこびりつく。
それでもこの訓練に必死であった。雪は降ってももう積もることはない。春はすぐそこまで来ている。
ここまで一緒に訓練をともにし、一日の大半を過ごした隊士らに思うのは一兵たりとも失うことなく無事で帰って欲しいという一念である。
そして土方だった。
この戦がどのような形で終わるのかうめ花には想像もつかないが、生きてこの先の時代を見て欲しいと思う。
まわりの状況と軍の上層部の会話から、例え降伏したとしても土方に明日があるという見方は少なかった。何故なら、土方が京で新選組を動かしていたその人だからだ。
何をどうすればなどとうめ花には考えもつかないが、伝習隊が勝利できれば土方の命もある。
それを思うと訓練には自然と熱が入る。一番いいのは自分がこの戦に行って戦うことだが、それを誰も許しはしないだろう。
土方がこの世に生を受けた時に背負って来た役目、この戦がその到達点になるのだろうか。
実弾による射撃訓練は、命中率からみてなんとか許容範囲となってきた。
フッと気が抜けたのだろう、うめ花はめまいをを感じてこめかみを押さえた。胸壁から乗り出していた体から力が抜けていく、まわりの背景がぐるぐるまわって穴の底にうずくまった。
Γあっ、先生っ!」
という声が遠くで聞こえた。
Γどうした?」
と土方が胸壁から穴へ飛び降りるのが、霞んだ視界に映った。
次にパチパチと燃える薪のはじける音に気づいた、あたりはもう暗い。
自分の寝台に寝かされ、おでこに濡れた手拭いを感じて手を伸ばす。
Γ目が覚めたか?」
土方の声だった。
重い身体を起こそうとすると関節が痛む、喉の渇きもひどかった。
Γ風邪を引いて無理をしたな、熱は引いたようだが...まだ寝ていろ」
部屋の隅に置かれた椅子から立ち上がった土方がゆっくり近づく。
Γ私...どうしてここへ?」
喉がひりひりする。声が引っ掛かりうまく言葉にならない。
Γ俺が運んだ、重かったぞ」
Γえ...ウソ」
Γ本当だ、具合を悪くしてうずくまっているくせに銃を離さん。仕方ないから銃ごと運んだ」
笑いながら寝台の横を指した。銃が立てかけられている。
Γありがとうございます、重いのにご迷惑をおかけして」
それだけ言うと寝台から足を降ろした。
Γどこへ行く、寝てろ」
Γ喉が渇いて...水を」
Γいい、俺が取ってくる」
土方はうめ花を寝台にとどめ、自室のストーブにかけられたヤカンから湯を汲んできてくれた。
(部屋の間の扉が開けっ放し、だから薪の音が近くで聞こえたのか...)
まだ頭がぼーっとしていた。
湯呑みを両手で包むと湯気が顔をはい上ってくる。乾ききった器官がじんわりと潤う。
(そうだ、顔が煤や泥で汚れて...)
思わず顔に手をあて頬をこすると、
Γなんだ、顔なら俺が拭いたぞ」
とうめ花の横に腰を降ろす。慌てて横へ身体をずらす。それでも自分の腕が土方の腕に触れている。
Γそんなことまで、土方さんに」
自分がこの状況と土方に顔を拭かれたことにひどく緊張して焦っている。
Γ俺の女だ、あたりまえの事をしたまでだ」
Γ!」
いつもはその言葉も聞き流せていたのに、今は意識しすぎて胸が苦しい。
Γそれは方便で、冗談で...」
言葉がしどろもどろだ。
Γ確かにあの時は方便だったな。だが冗談なんかでなく」
両手で持ったままの湯呑みをすっと取り上げられると、目の前に暗い翳りができた。
その瞬間、唇に温かいものが寄せられた。
Γ女は目を閉じるもんだ」
そう囁くと、ゆっくり土方の唇が重ねられた。
頭の中で、何かがはじけ身体中をさざ波のような震えが寄せていた。
Γ悪い、俺みたいな先のない男に...」
うめ花は首を強く横に振ると、
Γ私が、その先をつくります」
土方自身の未来は自分でわかっている。
戦場で死ぬか、生き残って投降し新政府に身柄を拘束される。その後は近藤と同じ結末を迎えるはずだ。未来などあろうはずがない。
俺が近藤さんを救おうと勝安房守に願い、薩摩の西郷が近藤の処遇に温情を掛けろと意見をしてもなお、その命が救われることはなかった。
それなのに、女のうめ花が。
地位も権力もない若い娘が、土方の未来を作るという。
女というのはその場限りでものを言う生き物だったかと、昔の記憶を辿ってみる。
かつて通った京島原の遊女も祇園の芸妓も、不確かな明日を待つ儚いだけの女だったと記憶している。新選組の未来だけを考え生きていた頃、近藤さんはよく隊士らを連れて島原に通っていた。
俺は大勢で遊郭に繰り出すなどと薄気味の悪いことは嫌で一人で行ったが。女たちが寄越した大量の恋文とやらも始末に困って多摩へ送りつけたな、
Γふっ...」
そんなことを思ってふと笑みがこぼれる。
Γおかしいですか?」
Γいや...」
今、目の前にいるのは、不確かな明日を待つだけの女ではなく自分が明日を作ると言ってのける女だった。
うめ花の言葉を信じるわけではないが変わった女だとは思う。自分の人生の上っ面だけを通りすぎてきた女達と何が変わるかといえば、この戦の結末がわかっていながら、
Γ死なないでください」
と言わずに、
Γその先の未来を作る」
と言う。
おかしいですか?と尋ねたまま、うめ花は土方から目を離さずにいる。
Γ行けるところまで行ってみるのも悪くはないな」
そう答えた土方に、うめ花は大きな目で見つめたまま頷く。
Γ目を閉じろ」