韓国客船に乗り合わせて
プロローグ
私は日本人。長瀬治美。25歳。長崎県対馬市出身で、対馬高校の韓国語科を卒業して、釜山の4年生大学釜任大学を卒業した。そして、韓国の商社に就職するつもりだったけど、ちょうどその頃反日運動が激しくなり、面接で体よく断られた。
それで、しばらく就職浪人をしたが、ついでにソウル市郊外の中学校で、就業期間1年という日本語教師の臨時募集があり、応募したら採用してもらった。昨年10月から働き始めて10か月が過ぎた。あと2か月で雇用期間が切れる。
これまで学校では、反日運動の盛り上がりのあおりい視線を浴びたこともあったが、韓国には目上の人を敬う習慣が根強く残っているから、表向き差別されたりすることはなかった。
だけども、この先韓国がどうなっていくか、もっともっと反日がひどくなるのか分からない。だから、私は1年の任期を終えたら日本に帰ることにしている。対馬で旅行客の韓国人を相手に土産物を売ったりあるいは旅行ガイドでもしようと思っている。
この先を考えるのに、ここ数年の私を振り返ってみた。ここ数年の私の人生は、やはり暗い影に付きまとわれていると思うしかない。最近は、「渡りに船」というような幸運とは全く無縁になってしまった。おまけに、気のせいか最近寝付きが悪い日が多いような気がする。今は、中学の上司や規則は反日ばかりでいやになるものの、素直で、輝くような若さの中学生たちに囲まれていることが、唯一私の生きがいだった。
明日は、私が所属している深山中学2年生は、修学旅行でチェジュ島に行くことになっていて、私はその引率をしなければならない。
私は、なんとか日付が変わる前に、旅行の準備をようやく終えた。そして、ベッドに入ったものの、寝付かれず、「まだ眠くならないのか」と焦りながら、時間を数えた。
第1章 出航後
8月2日午後10時20分。セマルル号4階甲板
4階と3階の客室に詰め込んだ生徒たちは、ひそひそ話しも止めてくれて、やっと就寝してくれた。私は一息着こうと、たばこを吸いに3階の甲板にやって来た。ここは広々としたオープンデッキ。黄海から夜風が吹いてきたが、湿気と中国大陸の粉塵混じりで、深呼吸する気にはならなかった。
気楽な姿勢でたばこを吸おうと、オープンデッキ隅の鉄柵に来て、鉄柵に腰を凭れさせた。鉄柵の中は白いタンクのような物が20個くらい設置されていた。給水タンクかと思ったが、違っているようだ。
私は、腰の高さくらいの鉄柵に載せ、さあこれからたばこを吸おうとしていた。
私は、たばこを銜えたまま、手のひらでたばこを覆って、火を付けた。日本製のメンソール入りのたばこの匂いが、私の気を静めてくれた。私から2メートルくらいの位置に紺色の乗員の制服を着た女性が立っていて、彼女もたばこを吸っていた。
私は、インチョン港を出てからのこの船の揺れが思ったより大きいので、そのことを聞いてみたかった。
「アニョハセヨ。乗員さん?」
「はい、お客様こんばんわ、乗員のパクチョンと言います」
といいながら、やや深く頭を下げてくれた。
「あら、日本語出来るの?」
「ええ、少しだけ」
「この船ってちょっと揺れすぎてないかしら?私、日本の対馬にいたからフェリーにはよく乗っていたけど、波は静かなのにこの船は揺れすぎてないかしら?」
私は、小学生の頃から、対馬の厳原発博多行きのフェリーに何度も乗ったことがあった。とくに冬の玄界灘は波は高く、これと同じくらいに大きなフェリーでも、荒海を航行するときの揺れは激しかった。高さ4〜5メートルまで持ち上げられたかと思うと、一気に落とされるのだった。まるでスピードだけのろいジェットコースターだ。でも、それは冬の玄界灘の話しだ。波のおだやかな黄海を走っているにしては、妙な揺れ方をしていた。
「私は客室係ですので、詳しいことはわかりません」
「こんなに揺れるのはなにか理由があるんじゃないの?」
「ええ、もしかしたら荷物の積み過ぎかもしれません。前から多く積んでいたから、今回も積み過ているかもしれません」
正直に話してくれた。彼女はやや上目使いにキビキビした話し方をしてくれて心地よかった。だが、この子も不安に思っているようだった。
「パクチョンさん、この船の船長さんってしっかりしているの?大丈夫なの?それに、万が一?」
「はい、万が一?」
私はさっきから気になっていた白いタンクのような物は、救命ボートではないかと気づいた。
「この白いタンクは救命ボートでしょ。万が一これを使うようなことってないわよね」
「はい、それはないと思います。波の静かなところを走っていますから」
とパクチョンはさっきより小さな声で答えた。
パクチョンの爽やかな声とハキハキした言い方には魅力があった。まじめで活動的な女性なのだろう。
「ところで、日本のたばこどう?」
とたばこの箱をパクに向けて差し出して勧めた。
「ああ、ありがとうございます。では1本だけ」
素直にもらってくれた。こんな時、日本人なら遠慮するだろうが、多くの韓国人は好意を断るのは失礼だと思ってくれて、大体受け取ってくれる。彼女の素性に興味が湧いた。
「聞いていいかな?」
「はい、」
「どうして、この船の乗員になったの?」
「はい、親と私の生活のためです。私は大学の経営学部に在学中だったけど、休学してお金のために働いています。」
「ああ、じゃあ腰掛けね」
「腰掛けっていうのは、日本で『とりあえずの仕事』とかいう意味よ。ああ失礼だったら謝るね」
「うん、でも私一生懸命やってます。せっかくこの船に乗ってくれたお客様がいるんですから」
「ああ、そうか偉いなあ、きっと私より偉いわ」
「お客様は、どうして日本人なのに韓国の中学で働いているんですか」
「まあ、いろいろあってほかに行くところはないし、1年限りのお金のための仕事かな?」
「腰掛けですか?ああ失礼しました」
「いや、腰掛けじゃないわ。生徒がいるんですもの。それに始めた以上はちゃんとやり遂げなきゃ、これも女の意地みたいなものね」
「女の意地ですか?負けないことですか?」
「ああ、そうそう負けないことよ」
「じゃあ、私たち同じですね」
私は、苦笑いしながらパクチョンの顔を見た。パクも笑っていた。
言葉の違いを乗り越えて、また境遇の違いを乗り越えて、少なくとも今という瞬間に共感し合える女性に出会えたことが嬉しかった。
「じゃあ、パクチョンさん、じゃあこの船が無事にチェジュに着けるよう、よろしくね」
「はい、お客様を意地でも無事に連れて行きます」
彼女はまたお辞儀をして去って行った。お辞儀をするというのは東アジアの共通の動作だろう。パクチョンのお辞儀が深かったことに、彼女の誠実な性格を感じた。本当はこんなことでわかり合えるのかもしれない。
第2章 停止した旅客船
8月3日午前8時48分。セマルル号4階客室。
私は日本人。長瀬治美。25歳。長崎県対馬市出身で、対馬高校の韓国語科を卒業して、釜山の4年生大学釜任大学を卒業した。そして、韓国の商社に就職するつもりだったけど、ちょうどその頃反日運動が激しくなり、面接で体よく断られた。
それで、しばらく就職浪人をしたが、ついでにソウル市郊外の中学校で、就業期間1年という日本語教師の臨時募集があり、応募したら採用してもらった。昨年10月から働き始めて10か月が過ぎた。あと2か月で雇用期間が切れる。
これまで学校では、反日運動の盛り上がりのあおりい視線を浴びたこともあったが、韓国には目上の人を敬う習慣が根強く残っているから、表向き差別されたりすることはなかった。
だけども、この先韓国がどうなっていくか、もっともっと反日がひどくなるのか分からない。だから、私は1年の任期を終えたら日本に帰ることにしている。対馬で旅行客の韓国人を相手に土産物を売ったりあるいは旅行ガイドでもしようと思っている。
この先を考えるのに、ここ数年の私を振り返ってみた。ここ数年の私の人生は、やはり暗い影に付きまとわれていると思うしかない。最近は、「渡りに船」というような幸運とは全く無縁になってしまった。おまけに、気のせいか最近寝付きが悪い日が多いような気がする。今は、中学の上司や規則は反日ばかりでいやになるものの、素直で、輝くような若さの中学生たちに囲まれていることが、唯一私の生きがいだった。
明日は、私が所属している深山中学2年生は、修学旅行でチェジュ島に行くことになっていて、私はその引率をしなければならない。
私は、なんとか日付が変わる前に、旅行の準備をようやく終えた。そして、ベッドに入ったものの、寝付かれず、「まだ眠くならないのか」と焦りながら、時間を数えた。
第1章 出航後
8月2日午後10時20分。セマルル号4階甲板
4階と3階の客室に詰め込んだ生徒たちは、ひそひそ話しも止めてくれて、やっと就寝してくれた。私は一息着こうと、たばこを吸いに3階の甲板にやって来た。ここは広々としたオープンデッキ。黄海から夜風が吹いてきたが、湿気と中国大陸の粉塵混じりで、深呼吸する気にはならなかった。
気楽な姿勢でたばこを吸おうと、オープンデッキ隅の鉄柵に来て、鉄柵に腰を凭れさせた。鉄柵の中は白いタンクのような物が20個くらい設置されていた。給水タンクかと思ったが、違っているようだ。
私は、腰の高さくらいの鉄柵に載せ、さあこれからたばこを吸おうとしていた。
私は、たばこを銜えたまま、手のひらでたばこを覆って、火を付けた。日本製のメンソール入りのたばこの匂いが、私の気を静めてくれた。私から2メートルくらいの位置に紺色の乗員の制服を着た女性が立っていて、彼女もたばこを吸っていた。
私は、インチョン港を出てからのこの船の揺れが思ったより大きいので、そのことを聞いてみたかった。
「アニョハセヨ。乗員さん?」
「はい、お客様こんばんわ、乗員のパクチョンと言います」
といいながら、やや深く頭を下げてくれた。
「あら、日本語出来るの?」
「ええ、少しだけ」
「この船ってちょっと揺れすぎてないかしら?私、日本の対馬にいたからフェリーにはよく乗っていたけど、波は静かなのにこの船は揺れすぎてないかしら?」
私は、小学生の頃から、対馬の厳原発博多行きのフェリーに何度も乗ったことがあった。とくに冬の玄界灘は波は高く、これと同じくらいに大きなフェリーでも、荒海を航行するときの揺れは激しかった。高さ4〜5メートルまで持ち上げられたかと思うと、一気に落とされるのだった。まるでスピードだけのろいジェットコースターだ。でも、それは冬の玄界灘の話しだ。波のおだやかな黄海を走っているにしては、妙な揺れ方をしていた。
「私は客室係ですので、詳しいことはわかりません」
「こんなに揺れるのはなにか理由があるんじゃないの?」
「ええ、もしかしたら荷物の積み過ぎかもしれません。前から多く積んでいたから、今回も積み過ているかもしれません」
正直に話してくれた。彼女はやや上目使いにキビキビした話し方をしてくれて心地よかった。だが、この子も不安に思っているようだった。
「パクチョンさん、この船の船長さんってしっかりしているの?大丈夫なの?それに、万が一?」
「はい、万が一?」
私はさっきから気になっていた白いタンクのような物は、救命ボートではないかと気づいた。
「この白いタンクは救命ボートでしょ。万が一これを使うようなことってないわよね」
「はい、それはないと思います。波の静かなところを走っていますから」
とパクチョンはさっきより小さな声で答えた。
パクチョンの爽やかな声とハキハキした言い方には魅力があった。まじめで活動的な女性なのだろう。
「ところで、日本のたばこどう?」
とたばこの箱をパクに向けて差し出して勧めた。
「ああ、ありがとうございます。では1本だけ」
素直にもらってくれた。こんな時、日本人なら遠慮するだろうが、多くの韓国人は好意を断るのは失礼だと思ってくれて、大体受け取ってくれる。彼女の素性に興味が湧いた。
「聞いていいかな?」
「はい、」
「どうして、この船の乗員になったの?」
「はい、親と私の生活のためです。私は大学の経営学部に在学中だったけど、休学してお金のために働いています。」
「ああ、じゃあ腰掛けね」
「腰掛けっていうのは、日本で『とりあえずの仕事』とかいう意味よ。ああ失礼だったら謝るね」
「うん、でも私一生懸命やってます。せっかくこの船に乗ってくれたお客様がいるんですから」
「ああ、そうか偉いなあ、きっと私より偉いわ」
「お客様は、どうして日本人なのに韓国の中学で働いているんですか」
「まあ、いろいろあってほかに行くところはないし、1年限りのお金のための仕事かな?」
「腰掛けですか?ああ失礼しました」
「いや、腰掛けじゃないわ。生徒がいるんですもの。それに始めた以上はちゃんとやり遂げなきゃ、これも女の意地みたいなものね」
「女の意地ですか?負けないことですか?」
「ああ、そうそう負けないことよ」
「じゃあ、私たち同じですね」
私は、苦笑いしながらパクチョンの顔を見た。パクも笑っていた。
言葉の違いを乗り越えて、また境遇の違いを乗り越えて、少なくとも今という瞬間に共感し合える女性に出会えたことが嬉しかった。
「じゃあ、パクチョンさん、じゃあこの船が無事にチェジュに着けるよう、よろしくね」
「はい、お客様を意地でも無事に連れて行きます」
彼女はまたお辞儀をして去って行った。お辞儀をするというのは東アジアの共通の動作だろう。パクチョンのお辞儀が深かったことに、彼女の誠実な性格を感じた。本当はこんなことでわかり合えるのかもしれない。
第2章 停止した旅客船
8月3日午前8時48分。セマルル号4階客室。
作品名:韓国客船に乗り合わせて 作家名:ブラックウルフ