バディ・ボーイ
1
1917年、ルイジアナ州――
リチャード・メイソンと妻のメリルは、2歳になる息子のルイスを連れてテキサスでの観光を楽しみ、自宅があるジョージア州への帰路に着いていた。
「楽しかったな」運転席のリチャードは言った。
「本当。でも帰ったらいつものように、『やっぱり家が一番だ』なんて言うんでしょ?」とメリル。
「違いない。だが、家が好きなんじゃない」
「どういう事?」
メリルは眉間に皺を寄せた。
「お前とルイスのいる場所が好きなんだ」
「まあ」
彼女はリチャードの掛けているサングラスを奪った。
「危ないだろ。返せ」
メリルが彼の言う事を聞き、ふざけてキスさえしなければ、左から迫ってくる列車によって、彼らが車共々スクラップにされる事は無かった。
畑仕事から帰る途中だったウィリー・ハートは、突然の出来事に一瞬息をするのを忘れ、茫然と立ち尽くした。
列車が通過した後に残されたT型フォードは木の板をへし折ったように折れ曲がり、傍らに一人血まみれの白人が倒れており、もう一人は車体と線路に挟まれ、ピクリとも動かなかった。
ウィリーはおそるおそる車に近付き、夫妻の安否を確認した。
「おい……大丈夫か?」
一人ずつ声をかけてみるが、どちらもその言葉が届いていない事は明らかだった。
うなだれて首を振ったその時、開けた大地に小さく響く泣き声が聞こえた。
「まさか」
彼は後部座席の隙間を覗き込んだ。そこには、ブロンドの髪をした白人の赤ん坊が丸まっていた。
(ああ、神よ……)
ウィリーは選択に迫られた。
赤ん坊をこのままにしておくわけにはいかない。しかし警察に連れて行きでもしたら、黒人の自分は逮捕される。事実など関係なく、両親を殺害した罪もかぶせられるだろう。
彼は死に別れた妻の事を思い出した。
道端で転んだ白人の少年に手を差し伸べ、立たせてやったところを父親が目撃し、保安官に通報したのだ。少年に触れたというだけで彼女は暴行罪に問われ、リンチを受けた。ウィリーの目の前で四人の男に犯され、殴り殺されたその光景を、今でも夢に見てうなされる。
赤ん坊は泣き続けていた。
地元の人間はあらかた帰宅し、誰かが来る気配も無い。
(教えてくれ、ベッシー。俺はどうすりゃいい?)
心の中で妻に問いかけた。
そういう事は神様に訊きなよ――朗らかな性格をしていた彼女ならそう言うだろう。そんな事を思いながらも、少しの間ウィリーは返事を待った。
“どっちが正しいかなんて、あんたはとっくに決めてるはずだよ?”
天の彼方から彼の心へ届いたのは、そんな言葉だった。
(そうだな、ベッシー……ありがとう)
彼は両腕を車の中に伸ばし、赤ん坊を抱き上げた。
2
〝積み藁に座って歌ってると
彼女がやってきたんだ
「プレゼントをもらうにも
それなりの準備が必要だって知らないのか?」
神にそう訴えると
太陽が赤く染まった
今まで見た事のないような鮮やかさで
俺達を照らしたんだ〟
納屋の奥で、少年は父親のギターを抱えて歌っていた。
「惜しい、そこはF#m7だ。F#mじゃない」
前に立って聞いていたウィリーがそう指摘すると、彼は頬を膨らませた。
「どう違うの?」
ウィリーは彼からギターを取り上げ、二つのコードを押さえてストロークした。
「分かるだろ? F#mじゃ、二人がキスする前に空が暗くなっちまう。ストーリーが重要なんだよ、BB」
あの事故から6年ほど経つが、ウィリーは子供を育て続けていた。
家に連れ帰った翌日、バディ・ボーイ(BB)と名付けた白人の赤ん坊を見た隣人は、悪魔の子供だと言ってショットガンの銃口を向けた。
「この子は何の罪も背負っちゃいない。突然の不幸に襲われただけだ」ウィリーは事故の状況を話し、隣人を説得した。
「白人の子供を撃ち殺したなんて事になったら、この町全体がどうなるか……そうだろ?」
多くの町人は、BBの存在を恐れた。疫病か何かをもたらすんじゃないか、この子を探してやってくる白人によってリンチされるのではないか……。そんな考えから、ウィリー自身をも遠ざけるようになった。
なんとか彼らの不安を取り除き、仲間として認めてもらわなければならない。そう考えたウィリーは、元気に歩いて言葉を話すようになったBBに、苗の植え方を教えた。村の役に立っているところを見せなければ、誰かが彼を殺そうとする。そんな事態だけは何としても避けたい。
これは、ベッシーを守る事が出来なかった自分に与えられた試練だ。ウィリーはそう思い、彼を守り抜く事に決めたのだ。
しかし、その試みもなかなか上手くはいかなかった。黒人が白人を働かせているその光景は周囲からますます奇異に映り、余計に不安を煽る結果となったのだ。
苦悩の日々は幾年にも渡って続いた。息子を奇妙な差別から守り続けながら、食わせてやる為に働くのは、容易ではなかった。ベッシーと神に祈りを捧げる事を日課にして、心を見失わぬよう努めた。
どうすれば、彼は町に受け入れられるのか……。ある時、ウィリーは彼にブルースを教える事にした。抑圧によって育て上げられた文化を身に付ける事で、町人との心を繋ごうと考えたのだ。
最初は手拍子に合わせて歌うところから始めた。ウィリーの歌は、ベッシーとの思い出によって成り立っている。彼女との出会いや愛、仲違いや死別。それらの要素がメロディと歌詞に込められていた。
慣れてくると、納屋で仕事をしながら、作物になぞらえた歌を即興で作る練習を重ねた。手の平がギターのネックを握る事が出来る大きさになると、ボディのニスが剥げかかった自分のギターと、ウィスキー瓶から作ったボトルネックを貸し与えた。
「どうして僕の肌は黒くないんだい?」
BBにとって、自由に外を出歩く事が出来ない白い肌は、コンプレックス以外の何物でもなかった。
「俺達にとっちゃ、贅沢な悩みだ。ニガーってだけで、町の外じゃまともに用を足す事も出来ん」
勿論、ウィリーの中にも白人に対する憎しみはあった。かつて全てを奪われた相手と同じ人種を、自分の手で育てている事に抵抗が無いといえば嘘になる。しかし、憎むべきはあくまであの四人のリンチ執行人であって、隣にいる小さなブロンド少年じゃない。願わくば彼の存在によって、黒と白がカフェラテみたく平等に溶け合う社会にならないかとも考えていた。
「そういう事を歌にするんだ」ウィリーは言った。「ブルースで訴えろ。ちゃんと自分を見てくれってな」
その日、ウィリーはBBを酒場へ連れて行った。国家禁酒法が定められるよりも前から自家製の蒸留酒を振舞い、男たちのたまり場となっている店だ。タバコの煙でくすんだ室内の一角にスペースがあり、気の向いた客はそこで歌えるようになっている。
二人が入ってくると、店のざわめきが一斉に止んだ。黒人の大人がたむろす社交場に、白人の子供はまさしく正反対の存在だった。それでなくとも二人はいつも、偏見の目を向けられているのだ。
「何しに来た?」カウンターの店主が訝しげな顔で言った。
「まあ、そう睨まないでくれや」とウィリー。「こいつが、皆に言いたい事があるんだと」
1917年、ルイジアナ州――
リチャード・メイソンと妻のメリルは、2歳になる息子のルイスを連れてテキサスでの観光を楽しみ、自宅があるジョージア州への帰路に着いていた。
「楽しかったな」運転席のリチャードは言った。
「本当。でも帰ったらいつものように、『やっぱり家が一番だ』なんて言うんでしょ?」とメリル。
「違いない。だが、家が好きなんじゃない」
「どういう事?」
メリルは眉間に皺を寄せた。
「お前とルイスのいる場所が好きなんだ」
「まあ」
彼女はリチャードの掛けているサングラスを奪った。
「危ないだろ。返せ」
メリルが彼の言う事を聞き、ふざけてキスさえしなければ、左から迫ってくる列車によって、彼らが車共々スクラップにされる事は無かった。
畑仕事から帰る途中だったウィリー・ハートは、突然の出来事に一瞬息をするのを忘れ、茫然と立ち尽くした。
列車が通過した後に残されたT型フォードは木の板をへし折ったように折れ曲がり、傍らに一人血まみれの白人が倒れており、もう一人は車体と線路に挟まれ、ピクリとも動かなかった。
ウィリーはおそるおそる車に近付き、夫妻の安否を確認した。
「おい……大丈夫か?」
一人ずつ声をかけてみるが、どちらもその言葉が届いていない事は明らかだった。
うなだれて首を振ったその時、開けた大地に小さく響く泣き声が聞こえた。
「まさか」
彼は後部座席の隙間を覗き込んだ。そこには、ブロンドの髪をした白人の赤ん坊が丸まっていた。
(ああ、神よ……)
ウィリーは選択に迫られた。
赤ん坊をこのままにしておくわけにはいかない。しかし警察に連れて行きでもしたら、黒人の自分は逮捕される。事実など関係なく、両親を殺害した罪もかぶせられるだろう。
彼は死に別れた妻の事を思い出した。
道端で転んだ白人の少年に手を差し伸べ、立たせてやったところを父親が目撃し、保安官に通報したのだ。少年に触れたというだけで彼女は暴行罪に問われ、リンチを受けた。ウィリーの目の前で四人の男に犯され、殴り殺されたその光景を、今でも夢に見てうなされる。
赤ん坊は泣き続けていた。
地元の人間はあらかた帰宅し、誰かが来る気配も無い。
(教えてくれ、ベッシー。俺はどうすりゃいい?)
心の中で妻に問いかけた。
そういう事は神様に訊きなよ――朗らかな性格をしていた彼女ならそう言うだろう。そんな事を思いながらも、少しの間ウィリーは返事を待った。
“どっちが正しいかなんて、あんたはとっくに決めてるはずだよ?”
天の彼方から彼の心へ届いたのは、そんな言葉だった。
(そうだな、ベッシー……ありがとう)
彼は両腕を車の中に伸ばし、赤ん坊を抱き上げた。
2
〝積み藁に座って歌ってると
彼女がやってきたんだ
「プレゼントをもらうにも
それなりの準備が必要だって知らないのか?」
神にそう訴えると
太陽が赤く染まった
今まで見た事のないような鮮やかさで
俺達を照らしたんだ〟
納屋の奥で、少年は父親のギターを抱えて歌っていた。
「惜しい、そこはF#m7だ。F#mじゃない」
前に立って聞いていたウィリーがそう指摘すると、彼は頬を膨らませた。
「どう違うの?」
ウィリーは彼からギターを取り上げ、二つのコードを押さえてストロークした。
「分かるだろ? F#mじゃ、二人がキスする前に空が暗くなっちまう。ストーリーが重要なんだよ、BB」
あの事故から6年ほど経つが、ウィリーは子供を育て続けていた。
家に連れ帰った翌日、バディ・ボーイ(BB)と名付けた白人の赤ん坊を見た隣人は、悪魔の子供だと言ってショットガンの銃口を向けた。
「この子は何の罪も背負っちゃいない。突然の不幸に襲われただけだ」ウィリーは事故の状況を話し、隣人を説得した。
「白人の子供を撃ち殺したなんて事になったら、この町全体がどうなるか……そうだろ?」
多くの町人は、BBの存在を恐れた。疫病か何かをもたらすんじゃないか、この子を探してやってくる白人によってリンチされるのではないか……。そんな考えから、ウィリー自身をも遠ざけるようになった。
なんとか彼らの不安を取り除き、仲間として認めてもらわなければならない。そう考えたウィリーは、元気に歩いて言葉を話すようになったBBに、苗の植え方を教えた。村の役に立っているところを見せなければ、誰かが彼を殺そうとする。そんな事態だけは何としても避けたい。
これは、ベッシーを守る事が出来なかった自分に与えられた試練だ。ウィリーはそう思い、彼を守り抜く事に決めたのだ。
しかし、その試みもなかなか上手くはいかなかった。黒人が白人を働かせているその光景は周囲からますます奇異に映り、余計に不安を煽る結果となったのだ。
苦悩の日々は幾年にも渡って続いた。息子を奇妙な差別から守り続けながら、食わせてやる為に働くのは、容易ではなかった。ベッシーと神に祈りを捧げる事を日課にして、心を見失わぬよう努めた。
どうすれば、彼は町に受け入れられるのか……。ある時、ウィリーは彼にブルースを教える事にした。抑圧によって育て上げられた文化を身に付ける事で、町人との心を繋ごうと考えたのだ。
最初は手拍子に合わせて歌うところから始めた。ウィリーの歌は、ベッシーとの思い出によって成り立っている。彼女との出会いや愛、仲違いや死別。それらの要素がメロディと歌詞に込められていた。
慣れてくると、納屋で仕事をしながら、作物になぞらえた歌を即興で作る練習を重ねた。手の平がギターのネックを握る事が出来る大きさになると、ボディのニスが剥げかかった自分のギターと、ウィスキー瓶から作ったボトルネックを貸し与えた。
「どうして僕の肌は黒くないんだい?」
BBにとって、自由に外を出歩く事が出来ない白い肌は、コンプレックス以外の何物でもなかった。
「俺達にとっちゃ、贅沢な悩みだ。ニガーってだけで、町の外じゃまともに用を足す事も出来ん」
勿論、ウィリーの中にも白人に対する憎しみはあった。かつて全てを奪われた相手と同じ人種を、自分の手で育てている事に抵抗が無いといえば嘘になる。しかし、憎むべきはあくまであの四人のリンチ執行人であって、隣にいる小さなブロンド少年じゃない。願わくば彼の存在によって、黒と白がカフェラテみたく平等に溶け合う社会にならないかとも考えていた。
「そういう事を歌にするんだ」ウィリーは言った。「ブルースで訴えろ。ちゃんと自分を見てくれってな」
その日、ウィリーはBBを酒場へ連れて行った。国家禁酒法が定められるよりも前から自家製の蒸留酒を振舞い、男たちのたまり場となっている店だ。タバコの煙でくすんだ室内の一角にスペースがあり、気の向いた客はそこで歌えるようになっている。
二人が入ってくると、店のざわめきが一斉に止んだ。黒人の大人がたむろす社交場に、白人の子供はまさしく正反対の存在だった。それでなくとも二人はいつも、偏見の目を向けられているのだ。
「何しに来た?」カウンターの店主が訝しげな顔で言った。
「まあ、そう睨まないでくれや」とウィリー。「こいつが、皆に言いたい事があるんだと」