詩に関するエッセイ
抒情性の彼方へ
自由詩というジャンルは、長い間、一人称の最後の砦として機能してきたと思われる。それは、小説よりも私的で、小説ほどの鍛錬も要らず、自由に思ったことを「私」の意識の赴くままに書いていく、そういうものとして機能してきた。言語というものがすでに一つの制度であったとしても、その組み合わせには個性が宿る。詩における思いがけない比喩の使用は、言語的な美を生み出す機能を果たすと同時に、詩人に固有の言語を生み出す機能も果たしてきた。だが、それゆえに、詩が、仮に「あなた」や「君」や「彼ら」や「それら」について語るとしても、それらの二人称や三人称が、一人称の中にたやすく包摂されてしまった。他者の問題や歴史や権力の問題は一人称と相いれない独自性を持っているにもかかわらず、それらをすべて一人称の中に回収して語ってしまうこと、それを仮に詩の「抒情性」と名付けてみよう。
抒情性を重視している詩は、詩人の固有性や神秘性、特権性と結びつきやすい。詩は、詩人のかけがえのない声をうたっている。詩は、言語によって世界の神秘へと到達する。詩は人間の最も根源的な叫びを伝える。だが、それは言うまでもなく、詩の独善性と表裏である。詩の少年性といってもいい。一人称を中心に回っている詩にはおのずと限界があり、その限界とは、他者や社会と対等に渡り合う力がないことである。一人の人間の周りには無数の他者がいて社会がある。その他者や社会を前にして、詩はそれらの重みを十分に量ることができるか。一人の人間が生きていくためには、他者や社会と対等に渡り合えなければならない。その倫理において詩が有効に機能しているだろうか。
もちろん、詩は抒情性のみを追求すればよい、他者や社会などは現実的過ぎる、他者や社会との闘いで疲弊した魂を詩は癒すのだ、そういう主張にも十分正当性がある。だが、そこまで他者や社会が人間にとって大きな問題となってくる青年期に、なぜ最も人間的であるはずの詩がその他者や社会との闘いを書かないのだろうか。二人称や三人称を、一人称の中には回収できないものとして、そこから常にあふれるものとして、それでもなお詩の中で何とか規定していく、呼びかけていく、そのことによって、詩は他者や社会と渡り合えるだけの重みを獲得するのではないだろうか。
すべてを一人称の中に回収し、一人称を特権化する抒情詩は、人間が長じるに従い直面する他者や社会の問題をうまく処理しきれない。二人称や三人称の尽きせない重みを十分くみ取ったうえで、それと渡り合う倫理を提示すること、そこに、青年期の詩の課題はあるのではないだろうか。