詩に関するエッセイ
永遠のともしびは消えた
詩と成熟は両立するのか、という問題に私は長く惑わされ続けた。私は31歳である。まだ成熟云々を語るには早すぎる気がするが、私の中ではもはや成熟が完了してしまったかのような心理の変わり具合なのだ。
そもそも、私が詩を書き始めたのは、社会に対する強烈な憎しみと、心に深く穿たれた傷、その二つから否応なく放たれてくる焦慮というか危機意識というか、とにかくきな臭い叫びのようなものを発する場を求めてのことだった。それを増幅したのが、自己中心的な被害者意識や他者との関係意識の欠如であり、私の詩がいかに幾何学的な幻想を描こうと、その根源には重大な危機がなければならなかった。
ところが、私が年をとるにつれて、その二つの危機が消えてしまったのである。私はもはや社会を憎まないし、傷心も癒えた。私を詩作へと駆動する、かつては永遠とも思えたともしびが消えてしまったのである。もはや私は詩作する原動力をもたない。
成熟は、一方では憎しみや傷心を消す方向に働いたが、もう一方では現実に極めて綿密に密着して分け入っていく生活意識を形成していった。それは、自己の相対化であり、相対化された自己が組み込まれている他者や制度のネットワークの内面化であり、それと同時に自己とその周囲すべてを極めて冷徹に反省する自意識の形成である。
それゆえ、私の批評意識はがらりと姿を変えていった。当初、私の批評は反抗であり非難であり批判であった。それは何かしらのアンチテーゼとして、否定として機能した。ところが、私の自意識・反省は、諸事象と決して対立しなくなっていった。敵ではなく、かといって味方でもなく、私の自意識は、私と対象との間を調整する裁定役としての役目を果たすようになっていった。それは、対象が自己と対立するというよりもむしろ既に自己に内面化されているという意識に基づくものであった。私は敵味方という構図をもはや簡単には設定できなくなってしまったのである。
私にはもはや真の意味で敵が存在しない。となると、実験や前衛というものも真の意味ではなしえなくなってくる。実験や前衛の基本的契機は否定であるからだ。私はもはや真に否定しえない、それゆえ前衛からは後退せねばならぬ。それゆえ前衛を基本とするような詩作はもはやなしえない。
私に新たに生まれて来たのは先に述べたような、裁定役としての批評意識である。しかも、人間にかかわるものはすべて対象とするような、幅の広い批評意識である。そのような批評意識で何をしたらよいかと考えると、ジャンルにこだわらない幅の広い批評であろう。特に、人間の生に深く分け入っていくような批評だ。私はもはや詩のみを批評するのではない。
こういうわけで、とりあえず私はしばらくの間詩から離れて広く批評の勉強をしようと思う。永遠のともしびは消えた、とでも言っておこうか、谷川雁に敬意を表して。