理由なき殺人
5.殺意
「あの、道は、これであってるんでしょうか?」
ずいぶん前から胸と喉元を去来していた言葉を、翔子はいま、ようやく口に出すことができた。
「道?」
数分前、近藤と名乗った男は、呆気にとられた様子で聞き返してきた。
「道はあっている……というより、市内までは一本道だから間違うはずないよ。そんなに僕、方向音痴に見えるかな。これでもけっこう自信あるんだけどね、このへんには」
近藤は相変わらず、にこやかに話を盛り上げようとしている。
しかし、翔子には、あたりの景色は賑やかになるどころか、時間が経つにしたがって、ますます閑静になっていくように思えた。
この男の言うことを信用してもいいのだろうか。このあたりで降ろしてもらったほうが賢明ではないか。いや、駄目だ。こんなところに降ろされても、再び途方に暮れるだけだ。もう少し……。もうしばらくだけ様子を見てみよう。
翔子は膝の上にのせた右手をぎゅっと握りしめた。
……大丈夫。市内に着いたら、すぐに降ろしてもらえばいい。それからのことは、そのあと考えよう。
「どうして、このこ何も喋らないんだろう。見た目はかなりいいんだけどなあ」
唐突な言葉に、翔子はびっくりして近藤を見上げた。
近藤は不思議そうに翔子を見返す。
「どうかした?」
「さっき、なにか……言いました?」
「いやなにも。どうしてそんなこと訊くの?」
「いえ、なんでもありません」
翔子は早口に答えて、下を向いた。
さっきのは……彼の心の声だったんだ。聞こえていたんだ。聞きたいけど聞きたくない。聞くのがこわい!
そう思った瞬間、頭痛と耳鳴りが――チカラの働く前兆が脳に鳴り響いた。
「……久々にいい女つかまえたのになぁ……このままじゃ、あんまり乗り気になれな……そうだ……して……みようかな……」
まだ所々途切れて聞こえるが、まえよりは随分クリアになっている。
翔子は、耳をふさぎたい衝動と、耳を澄ましたい好奇心と、その葛藤に苛んだ。
近藤の独り言はさらに続いた。
「さっさとどこかに連れ込んで……らくかも……顔はきれいだし肌も悪くない……を絞めて……」
翔子は耳を疑った。……絞める? 首を絞めると聞こえたような気がした。
「……そのあとは……っくりと時間を……の肌を切りさいて……蔵を引きずり……バラバ……もって帰ろ……」
肌を切り裂く? バラバラ? 首を絞める?
考えれば考えるほど、混乱という状態に向かって転げ落ちていく。
翔子は震える手を必死で押さえつけながら、隣で運転を続ける男の横顔を見た。何も変わらない。胸のなかで考えているようなことは微塵も表へ出していない。怖ろしいまでの冷徹さ。それをその横顔から感じ取ることができた。
「みろよ……だとしても……気づきやしない……さぞ簡単に折れる首の骨……」
「やめてください!」
思わず、翔子は叫んでしまっていた。何も考えずに。
「ど、どうかしましたか?」
男が紳士の仮面をつけて心配そうに訊ねてくる。
「な、なんでも、ありません……なんでも……」
翔子は冷静になろうと、男に気づかれないように何度も深呼吸をした。吐き出す息さえ震えている。
まだ、このひとが殺人者だと決まったわけじゃない。翔子は必死に言い訳を探した。ただ、頭の中で妄想をしているだけかもしれない。実際に行動に移すかどうかは別問題。
大丈夫、大丈夫。わたしのチカラさえ知られなければ、いますぐ殺されることはないはず。とりあえず、いまは、このまま大人しくしていれば……市街地に着いてから助けを求めるなり、なんなりすればいい。いまは、落ち着くのが先決だ。
そう、何事もなかったかのように振る舞えばいい。
翔子は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
「……は、気分でも悪いのだろうか?」
「いえ……大丈夫です」
翔子は言ってしまってから、すぐにしまったと気づいた。
さっきの声は……。
おそるおそる近藤を見てみると、やはり驚いた顔でこちらを見ていた。
「びっくりしたな。いきなり独り言なんて言うから。もしかして、独り言を言う癖とか、あったりしない?」
それに答える余裕など、翔子には残っていなかった。
ばれてしまった。わたしのチカラが知られてしまった。殺される……。
「……いつ、いったいどうし……の正体が知られ……いますぐ殺……」
「とめてください!」
翔子は胸の前で祈るように両手をからめて、そう叫んだ。
近藤は目を見開いて、振り返った。
「車を、とめてください。……き、気分が、悪くて……」
「だ、大丈夫?」
そう言って、近藤はブレーキを踏んだ。
車がのろのろと減速する。いままで一番長い十秒間を翔子は嫌と言うほど味わった。
完全に停車しないうちに、翔子はドアを開け放って外へ飛び出した。
どこへ行こうか、そんなことは考えてもいない。ただ、目の前に広がる闇へ――木々の中へ、身を隠そうとだけ本能が訴えかける。
突っ走る翔子の背後から、男の声が飛んできた。なにやら叫んでいるようだったが、何を言っているのか聞き取れない。
構わず、前へ前へ走った。とりあえず前へ。闇へ。
翔子が逃げたことに気づいたのか、男は車から出て、叫びながら追いかけてきた。
土を踏み込む音が、落ちた木の枝を踏み折る音が、次第に大きくなって背後から迫ってきている。もう、数メートルくらいだろうか。
翔子は泣きそうになりながら走り続けた。泣いたって何も解決しない。そう頭では理解していても、涙はこぼれそうなくらい目に溜まっていた。
まっすぐなはずの木が、涙で不気味に歪んで見える。空間がねじ曲がったような錯覚。不思議の国に迷い込んだアリスのように、翔子は走り続けた。
恐怖のためか、疲労のためか、身体がいうことを聞かなくなり始めた頃、ふっと身体が宙に浮いた。
なにかにつまずいてしまったのだ。
一瞬だけ空を泳ぐように舞い、次の瞬間、翔子の身体は湿った地面に、呼吸が止まるくらい激しく叩きつけられた。
しびれる全身に全神経を集中させ、急いで起きあがろうと試みる。うまくいかない。自身の身体と悪戦苦闘しているところへ、木の枝が踏み折られるこぎみ良い音が、すぐ後ろから聞こえた。おそるおそる振り返って見上げると、黒い影が目の前に立ちはばかっていた。
その影は息を切らしながら優しい声を浴びせてきた。
「きゅ、急にどうしたんですか? 突然走り出して……」
もう駄目だ、と翔子はぼんやり思った。
「車内にハンドバッグを置き忘れていましたよ。なくしたら困るでしょう?」
そう言って男は、ハンドバッグを翔子の手に握らせた。そして翔子の手を取り、立ち上がらせようとしたが、虚ろな瞳の翔子はそれを拒む。
男は諦めたように翔子に背を向け、歩き始めた。
「とりあえず、車に戻りましょう。……ここはなんだか気味が悪い」
翔子は地面に尻をついたまま、茫然と男の後ろ姿を見ていた。
わたしは殺される。あの男に殺される。
このあたりには人がいない。誰もわたしを助けてくれない。
だから、わたしは殺される。あの男がいる限り、殺される。
あの男を殺さなければ、わたしが殺される。