理由なき殺人
3.考える葦
陽の光を失った山道は、昼間と比べて何倍も哀愁に満ちていた。
整然と立ち並ぶ木々、風に揺られる雑草。ほかには何もない。もちろん、ひとけなど一欠片もない。あるのは自然。自然に切り開かれた道。そして、植物たち。
翔子はなによりも植物が好きだった。植物は決して喋らないし、なにも思わない。理想のパートナーだ。考える葦など目の前から消えてしまえばいい。
翔子は上機嫌に車を飛ばしていた。やっぱり、ひとけのない場所が一番だ。こんなところなら、人間の醜さを聞くこともなければ、それで気分を害することもない。いっそのこと無人島に移住しようか。ふとそんな考えが頭をよぎる。それにはもっとお金が必要だわ。
……なにを考えているのだろう、わたしは。
馬鹿げた考えを一瞬でも本気に検討した自分を、翔子は自嘲気味に笑った。
カーラジオに雑音が目立ってきたので、音楽に切り替えた。趣味の楽曲ではなかったが、しかたなくそのまま流しておくことにする。
と、数分もしないうちに、音量が小さくなっていき、それにつられるように車速も衰え始めた。
「エ、エンスト……?」
思わず声に出してアクセルを踏み込むが、右足にはまったく抵抗が感じられない。
「……うそでしょう」
翔子のつぶやきも虚しく、ほどなくして車も音楽も完全に止まってしまった。
肩を落として、車を出る。なんとかならないだろうか、と熱気を帯びたボンネットを開けて見た。煙がエンジン部分からもうもうと立ち上がる。これはひどい。翔子は口を手で抑えて、その場から離れた。
車に詳しくない翔子には、どうすることもできなかった。
近くに民家がないかと探し回ったりしたが、当然見つかるはずもない。公衆電話も見あたらないし、携帯電話もない以上、助けを呼ぶ手立てもない。
翔子は途方に暮れて、車の横に背もたれた。
重い息を吐きながら空を見上げる。真っ暗な空。星はひとつも見えなかった。雨が降り出すかもしれない。傘も持っていないから、歩いて山を下るのはやめておいた方がいいだろう。ということは、やっぱり待ちぼうけか……。
結局、他人に頼らなければならない今の自分が、その存在を否定してしまいたいくらい嫌で嫌で仕方なかった。
どれくらい経ったのだろう。自然のなかにはあり得ない音に気づいて、翔子は伏せていた顔を上げた。
自動車の走る音だ。
直感したとおり、登りの道からやってくる車のライトがぼんやりと見えた。
その車は翔子を数メートル通り過ぎると、速度を落として道の脇に止まった。
よかった。気づいてくれたみたい。翔子は胸をなで下ろして、その車に駆け寄った。
そのメタリックブルーのスポーツカーから降車してきたのは、まだ若い男だった。顔立ちも良く、細身で背も高い。人の良さそうな雰囲気を全身から放っていて、好青年と胸に名札をつけて歩いているような人柄だろうか。
「どうかなさったんですか?」
男は紳士的に訊ねてきた。
翔子は警戒心を緩めることなく、言葉を返した。
「車がエンストしてしまって。困っているんです」
そう言って、自分の車を目で示した。煙が上がっているようなことはなかったが、車は精気を奪われて寂しそうに佇んでいた。
「ちょっと見せてもらえますか?」
「ええ、もちろんです。どうぞ――」
翔子は微笑み返して、男を車へと促した。
男はエンジン部分を調べたり、運転席に乗り込んでいろいろと試みたようだった。しかし結局、車が息を吹き返すことはなかった。
「駄目ですね。動きそうもない」
男は首を左右に振りながら、診断結果を伝えた。
「そう、ですか。……どうしよう」
「どうでしょう?」
心なしか、男の声が明るさを増したように思えた。
「車をここに置いたままで構わないのなら、僕が市内まで乗せて行きましょうか? ああ、もちろんあなたが望むのなら、の話ですが」
「え……」
翔子は男の申し出にとまどった。この男は何が目的なのだろう。何か下心があるに違いない。翔子は男の顔をじっと眺め、意識を集中してみた。
――しかし、いつまで経っても、何も聞こえてこなかった。
肝心なときに働かないなんて、なんて役立たずなチカラなんだろう!
「なんだか警戒されちゃってるなあ。まあ、無理にとは言わないよ。嫌なら嫌でいいんだけれどね」
男はうなじを手で掻きながら、朗らかに笑った。
「い、いえ。……そんなんじゃないんです」
翔子は作り笑いを浮かべながら言った。
「じゃあ……お言葉に甘えて、市内までお願いします」
男は、翔子が助手席のシートベルトをつけたのを確認すると、車を発進させた。
ゆっくりと動き始める外の淋しげな景色。サイドウィンドウで四角に切り取られたスクリーンは、いつまでも似たような映像をうつし続け、ループしているような錯覚に陥る。助手席からの眺めも、そんなに悪くないな。翔子は新鮮な体験に少しだけ気分が晴れた。
「あのう、どうしてあんなところに?」
男が言いづらそうに聞いてきたが、翔子はその質問の意味がわからなかった。答えようがなく、しばらくの間、カーラジオが車内を支配した。気まずい時間が続く。
「いや、なんか訊いちゃマズイことだったかな。ただ、若くて綺麗な女性が、こんな物寂しい山奥にひとりでいたから……なにかあったのかなって……」
「ああ……趣味なんです。こんなところをドライブするのが」
本当ではないけれど嘘でもない、と翔子は思った。
「なるほどね。趣味なんだ……」
男は一応納得したように二、三度頷いて見せた。
「僕もドライブは好きだな。それから散歩も。こんな自然の中を散策するのも気持ちいいけど、街の中を歩き回るのもおもしろいね。人通りをぼうと眺めるのも……」
「ひとけの多い場所は嫌いです」
言ってしまってから、翔子は後悔した。なにも、こんな下らない会話で本心をさらけ出す必要なんかないのに。
「そう。人の多い場所は嫌い?」
「ええ……まあ……ちょっと苦手なんです」
「人を観察するのはおもしろいよ。人間ウォッチングっていうのかな。いろんな癖が、その人それぞれにあったりして……見ていてホントに飽きない。人間を観察していると、世の中いろいろと不幸なことばかり起きているけれど、やっぱり人間って本来はそう悪いものじゃないと――」
「そんな話には興味がありません!」
翔子は耐えられなくなって、大きな声で男の話を遮った。「そんな話は不愉快です。やめてください。人間はみんな、汚れた心しか持っていない! あなたはそれを見ていないだけよ!」
翔子はすべてを吐き出してしまって、それから自分がひどく興奮していることに気づいた。わたしはなにをムキになっているんだろう。聞き流しておけばいいものを……。
上気した額に手をあてながら、翔子は恥ずかしさのあまり失語症になったような気がした。なんとか、必死に声をつむぎ出す。
「す、すみません。大声を出してしまって……」
「いや……気にしなくていいよ。ちょっと、びっくりしたけどね」
男は笑ってさらりと言ってのけたが、内心、へんな女だと思っているのだろう。
翔子は逃げるように、視線を車窓へと向けた。
突然、ずきりとこめかみに刺激が走った。