久保学級物語(前篇)
久保学級物語(前篇)
1) 久保学級とは田辺小学校5・6年のクラスのことで担任の名前で呼んでいるが、このクラス会が極めて長寿で先生が亡くなられた後も常任幹事のもとで毎年開催されている。このクラス会が平成25年の10月に「古希を祝う会」を開くためその準備に入っていた。準備とは数十年に一度行われる節目のクラス会に対する級友への呼び掛けなど様々な根回しのことを意味する。このクラス会が長寿なのはひとえに先生の人柄に拠るところが大きい。
田辺小学校は大阪市の南部に位置し少し足を伸ばせば郊外へと続く住宅地の一角にあって田園都市的な雰囲気が漂っていたが新興住宅地というわけではなかった。また、この地域の中核的な小学校であり児童数が急増していく過程で周辺に新しい小学校ができるとその都度小学校区の線引きが見直され、それに基づいて学童の分離が行われた。それでも1学年6クラス300人、全児童数1800人を要する小学校であった。さらに数年あとの団塊の世代を迎える頃には1学年9クラスにまで膨らみ教室が足らない1・2年生のうちは午前と午後の複式授業が行われたことにより急場をしのいだのである。
当時の家庭は多少の貧富の差があったが、だいたいが貧乏家庭で田畑山林を所有する地主などはいなく所謂うさぎ小屋の家で暮らすのがやっとといった程度であったが、それでも小学校は別天地で登校拒否や引きこもりなどいるはずもなかった。給食代が払えず昼飯を抜かざるを得ない児童に対しては時により先生が面倒をみられたことも実話として残っている。
翻って学校給食代を支払える経済力があるのに子供に無銭飲食させている親がいるという、昨今の事情は呆れ果てて言葉にならない。
小学校の4年までは誰と同じクラスであったのかよく覚えていないが、5・6年のクラスはすぐに全員思い出すことができるのは先生とクラス会のおかげである。当時しばしば先生の家に招かれてみんなで遊びに行った思い出が忘れがたい記憶となっているのであろうが、その度に先生宅の2階の床が抜け落ちないかとハラハラされた先生の苦労話が思い出されるのである。
2) クラス会が長寿なのはひとえに先生の人柄に拠ると言ったが、クラス各人の先生に対する評価は様々であるし、先生の方もクラス50人の生徒に対する接し方は様々であったと思う。しかし、ここで言う評価とは5段階でいえばどれに当たるというような採点式評価ではない。それは先生が生徒ひとりひとりにどのように接してこられたかによって各人が受けた印象を答えるべき性質のものである。
先生が香川県の出身で大阪に出てこられてからも教職につかれたという話はずっと後になって先生の娘さんの手記から知るところとなった。香川県小豆島は二十四の瞳の舞台であり小学校での担任大石先生と生徒のことが思い出されるが、久保先生には大石先生に通ずるところがあったのではないかと思うのである。それは次のような一コマからも推察できそうである。
何かの折に二十四の瞳の著者は誰かという質問をされた時に私が手を挙げて答えた。壷井栄(さかえ)ですと言うべきところを壷井栄(ひさし)ですと言ったのでクラスから失笑されるはめになったが、先生は考え深げに「さかえ」ですと訂正された。
当時、私は趣味で切手を集めていたが文化人切手シリーズがなかなか揃わなかった。その中に木村栄(ひさし)という天文学者の切手がありそれを入手したいと思っていた矢先の出来事だったかもしれない。つい、「ひさし」と言ってしまったのである。先生にはその辺の事情が理解できなくても何か訳があると感じられたに相違ない、少しためらっておられたことを思い出す。
その壷井栄の件があってから次のような疑問が頭をかすめるのだが、あの時先生はなぜあのような質問をされたのであろうか、ちょうど国語の時間で教科書にそのことが載っていたからであろうか、そうであれば当然の質問と受け取れるがどうもそうではなかったように思われてならない。それは先生からのメッセージではなかったか、私はみなさんを大石先生のように見守っていますよと。
1) 久保学級とは田辺小学校5・6年のクラスのことで担任の名前で呼んでいるが、このクラス会が極めて長寿で先生が亡くなられた後も常任幹事のもとで毎年開催されている。このクラス会が平成25年の10月に「古希を祝う会」を開くためその準備に入っていた。準備とは数十年に一度行われる節目のクラス会に対する級友への呼び掛けなど様々な根回しのことを意味する。このクラス会が長寿なのはひとえに先生の人柄に拠るところが大きい。
田辺小学校は大阪市の南部に位置し少し足を伸ばせば郊外へと続く住宅地の一角にあって田園都市的な雰囲気が漂っていたが新興住宅地というわけではなかった。また、この地域の中核的な小学校であり児童数が急増していく過程で周辺に新しい小学校ができるとその都度小学校区の線引きが見直され、それに基づいて学童の分離が行われた。それでも1学年6クラス300人、全児童数1800人を要する小学校であった。さらに数年あとの団塊の世代を迎える頃には1学年9クラスにまで膨らみ教室が足らない1・2年生のうちは午前と午後の複式授業が行われたことにより急場をしのいだのである。
当時の家庭は多少の貧富の差があったが、だいたいが貧乏家庭で田畑山林を所有する地主などはいなく所謂うさぎ小屋の家で暮らすのがやっとといった程度であったが、それでも小学校は別天地で登校拒否や引きこもりなどいるはずもなかった。給食代が払えず昼飯を抜かざるを得ない児童に対しては時により先生が面倒をみられたことも実話として残っている。
翻って学校給食代を支払える経済力があるのに子供に無銭飲食させている親がいるという、昨今の事情は呆れ果てて言葉にならない。
小学校の4年までは誰と同じクラスであったのかよく覚えていないが、5・6年のクラスはすぐに全員思い出すことができるのは先生とクラス会のおかげである。当時しばしば先生の家に招かれてみんなで遊びに行った思い出が忘れがたい記憶となっているのであろうが、その度に先生宅の2階の床が抜け落ちないかとハラハラされた先生の苦労話が思い出されるのである。
2) クラス会が長寿なのはひとえに先生の人柄に拠ると言ったが、クラス各人の先生に対する評価は様々であるし、先生の方もクラス50人の生徒に対する接し方は様々であったと思う。しかし、ここで言う評価とは5段階でいえばどれに当たるというような採点式評価ではない。それは先生が生徒ひとりひとりにどのように接してこられたかによって各人が受けた印象を答えるべき性質のものである。
先生が香川県の出身で大阪に出てこられてからも教職につかれたという話はずっと後になって先生の娘さんの手記から知るところとなった。香川県小豆島は二十四の瞳の舞台であり小学校での担任大石先生と生徒のことが思い出されるが、久保先生には大石先生に通ずるところがあったのではないかと思うのである。それは次のような一コマからも推察できそうである。
何かの折に二十四の瞳の著者は誰かという質問をされた時に私が手を挙げて答えた。壷井栄(さかえ)ですと言うべきところを壷井栄(ひさし)ですと言ったのでクラスから失笑されるはめになったが、先生は考え深げに「さかえ」ですと訂正された。
当時、私は趣味で切手を集めていたが文化人切手シリーズがなかなか揃わなかった。その中に木村栄(ひさし)という天文学者の切手がありそれを入手したいと思っていた矢先の出来事だったかもしれない。つい、「ひさし」と言ってしまったのである。先生にはその辺の事情が理解できなくても何か訳があると感じられたに相違ない、少しためらっておられたことを思い出す。
その壷井栄の件があってから次のような疑問が頭をかすめるのだが、あの時先生はなぜあのような質問をされたのであろうか、ちょうど国語の時間で教科書にそのことが載っていたからであろうか、そうであれば当然の質問と受け取れるがどうもそうではなかったように思われてならない。それは先生からのメッセージではなかったか、私はみなさんを大石先生のように見守っていますよと。
作品名:久保学級物語(前篇) 作家名:田 ゆう(松本久司)