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愛き夜魔へのデディケート

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「幻影防儀(アデプト・イリュージョン)……。ヴィルのそれには及ばないにしろ、お前の焦点のない眼を欺くぐらい造作もない事だ」
 バキバキという頚部の悲鳴が絶え間なく私の耳に飛びこんでくる。どうやら全精力を注ぎ込んだ絃で私が撃ち抜いたのは、よりにもよってユーリエから分離した幻影だったらしい。
 一体何時の間に彼女は分身などという、大それた術式など会得したのだろうか。何時あの戦いの最中に己の幻影と摩り替わったのか。そして何より、何故あの時、私はその幻影に攻撃されたのか…………。
 そんな事を考えている間もユーリエの爪は私の首に走る痛感神経を絶え間なく刺激する。どうにかして彼女の手から逃れようと私はその身体を前に、後ろに、そして左右に動かそうとするも、それらは全く虚しい努力だった。
 ストリゴイは術式抜きの純粋な力も異常なまでに強いのだ。身体能力は人以下のそれな上、ファニーの様に体術の心得があるわけでもない私が逃れられる道理などどこにも無い。
 いずれにせよ、一転してこの場の敗者となったのは私のようだ。ユーリエはそんな私の無様な姿を見て妖しい笑みを浮かべている。

「ふ……ふっ。どうやらここまでみたいね…………。ユーリエ。……さっさと私を殺しなさいよ」
「おいおい…………らしくないな。一体全体どういう風の吹き回しだ?」
「相変わらず鈍いのね……私の負けだって言っているのよ。さっさと私の血を全部吸って殺すがいいわ。この場で貴女の手にかかって死ねるなら、それはそれで本望よ。むしろ……その死に様が、私にはお似合いってものだわ…………!」
 勿論、嘘だ。私の知るユーリエは心が幾ら複雑に捻じ曲がっていても、力無き者を殺めるほど歪んではいない。
 既に身体は人のそれでないとはいえ、今こうして“形”を保っているなら、まだ心まで悪魔に堕ちてはいないだろう。付け込む隙は幾らでもある。
 幾らその心身を黒く染めても、真正の悪には決して為りきれない……それがユーリエ=フローマーの最大にして致命的な欠点。確信とも、一縷の望みとも言える根拠の無い答えから、私は死中に活を見出すための言葉(かぎ)を作った。
 後はそれを差し込んで回してしまえば、取敢えずこの場だけは脱出できる……。そこから先の事はその時考えればいい。
「どう、したのよ。まさか怖気づいたの? ほら、やれるものならやってみっ…………!」

 全て言い終わるその前に一際強烈な痛みが私の首を、そして全身を襲う。先程までの戦いの所為で完全に体力を消耗した私の口からは、悲鳴の一つも上がらなかったが。精々か細い呻き声を漏らすのがやっとだった。
「嘘は良くないぞ、ヴィオラ…………。初めから命が要らないなら、下手にあんな小賢しい手を使って抵抗なんかしない……まして、決闘なんていう手段には訴えないよ。お前はまだ死にたくない、出来ることならどうにか逃げ延びたい…………そう考えてるだろう?」
 駄目だ……バレている。恥も外聞も捨てて惨めに虚勢を張って、いや偽りの慈悲を乞うて少しでも逃げるだけの隙を作るという、最後に残った選択肢も意味を為さなかった。
 あぁ……そうだ。一番最初に気付くべきだったのだ。もはや相手は私の知るユーリエ=フローマーではなく、身も心も深淵に堕ちて、純粋な闇に染まり果てた黒い悪魔だという事に。
 “これ以上ユーリエに深入りするのは止めなさい……”今日聴いたばかりのファニーの警告が激しくリフレインする。相手の言うことにいちいち反発したがる自分の性分がつくづく憎たらしい。
 心の臓が早鐘のように脈打ち、口から漏れる呼吸がからからに乾いていく感覚を憶える。

「そんなに怖がるな……私がお前を殺すわけないじゃないか。それに…………」
 と、その刹那……首にかけられていた力と同時に私を襲っていた痛みがフッと消える。
「私はね……ずっと、何でも言う事を聞く奴隷が欲しかったんだ。お前の使う絃みたいな奴隷がな…………」
(………………っ!!)
 奴隷。ユーリエのその言葉の意味を、激戦により疲れ切った頭で理解した頃には遅過ぎた。
 いつの間にか私の身体はユーリエの両腕にすっぽりと包み込まれてしまっていた。頼みの綱である術式も自身の魔力も尽きた今、この場で抵抗する術は何一つ残されてはいない。
 悔しい気持ちを噛み締めているその間にも、ユーリエの唇と私の頚動脈との距離は少しずつ縮んでいく。
「寂しかっただろう……お前。誰にも素直になれなくて、本当の自分を理解してもらえなくて、みんなに誤解されてばかりいて…………」
 そっと首筋を撫ぜていくユーリエの吐息。鋭利な二つの何かが“そこ”へ突き刺ささる音と痛み。
 体温、心拍、そして思考が、急速に深い闇へと落ちていくような感覚…………。それらは至上の快楽を伴って私を支配しはじめる。真新しい噛み傷を舌が撫ぜる度に、全身を強い電気のそれに似た刺激が高速でひた走る。きっと今私は無様に顔を紅潮させ、だらしなく開かれた口から荒い吐息を絶えず漏らしているに違いない。一度は本気で愛したユーリエにあられもない姿を晒しているに違いない。悔しさ、絶望、死への恐怖…………押し寄せるありとあらゆる感情に下唇を噛み締める。
「あ、くぅ……っ。ユー……リエ…………っ」
「心配ないよ……ヴィオラ。もう二度と寂しい思いはしなくていい。お前には永遠の安らぎと居場所、そしてずっと私の傍にいる権利をやるからな…………」
 ストリゴイの少女の囁きは甘い香を放って脳を駆け巡り、残された僅かな理性を蕩けさせる。その間も熱と鼓動の低下は止まらず、四肢を初めとする身体機能のコントロールさえも、己の意思ではままならなくなる。
 明るさを失って遠のいてゆく意識。重く冷たくなる身体。だが、生の終わりを意味するそれらの現実も、その中で絶えず身体と心を駆けていく快楽の前に、虚しく霞んでいく。
「……い…………や………………」