ひとくさり 4
「それで、結局素手で倒してきたということなのかの、先生」
「先生? なんで急に先生なんだよ。僕のことは小間使いか何かとしか思っていないくせに」
「うーむ。しかしあらゆる人物像に似せる練習は、普段からでもつんでおくものじゃよ」
「あー、そう」
「それで、素手で倒してきたということかの」
「でも、これでも一応教員免許は持ってんだ。似せるも何も、ないだろうに」
「それで、素手で倒してきたということかの」
「…あー、ぼこぼこにされ―」
「ほんとうに腕っ節がないのう」
「うるせえ。夢の中にいるみたいで動きにくいし、頭も働かねーんだよ」
「おまけに言い訳がましい。情けない男じゃて」
「事実じゃねえか。これのどこが言い―」
「だから言っておるのじゃ。物語に入り込む以上、役作りというものが必要じゃと。よいか、お前さんが向こうに行ってまず初めにすることは、物語を導くことではない、それは本題に入ってからじゃ。それまでは―」
指をぱちんぱちんと鳴らす。
「『それまでは己が人物像を知ることじゃ。取って代わった人物の氏名を知り、その使命を知る。ならねばならぬ。為せば成る。そのうちに、その人物像とお前さん自身は、重なっていく。いわゆるシンクロじゃな。そうすればその夢の中のような違和感とやらは去っていくわい。なのになんじゃ、お前さんは』はいはい、もういいよ、聞き飽きた。食傷、食傷」
「おや? なんじゃ、先生。ぼくの真似はできるようじゃの。お前さんは、ぼくとはシンクロしそうじゃ」
「誰が好き好んであんたなんかになるか」
今、いつもの事務所で、僕はこの老人と話している。事務所は木造で、歩けば床がめしりぎい、ぺきき、と鳴るような、古い建物である。
事務所といってもそれは便宜上そう呼ぶと耳障りがないからそう呼んでいるだけで、その実態は仕事用のデスクもない、田の字の羽目殺し窓が一つだけある、実験室である。
乱雑に置かれた多くの器具は、攪拌するぐもぐもという音や、ピストンが動くしょこしょこという音が鳴っていて、いつの時間にも鳴り止むことはない。
戦犯はこの老人の行っている実験である――何の実験をしているかはわからないが。
今も彼は話しながら、なにやらステンレス製の、ウツボカズラに似た小さな容器から、加熱しているビーカーに、得体の知れない液体を注ぎ込んでいる。縦よりも横に大きい老人。拉げた団子鼻を顔中央に付け、脂肪が顔下部に沈殿していて顎がなく、頭頂部は禿げ上がっている。そこに、瞳が円らときているのだから、一見すると、好々爺の印象を人に与える。が、果たしてその実態は、憎たらしい説教じじいである。
「ではそろそろ、膾炙の震源となってくれんかの」
「あ? あー、そうか」
膾炙。かいしゃ。人々に広まると言う意味である。その震源になるということは即ち、僕が物語の中に入ってからの顛末を、ひとくさり話すという意味である。
文面のように淀みなく、余分な部分は排除し、淡々と区切りまで語らなければならない。無事話し終えると物語は、人を伝うという目的を果たされる。
しかし、登場人物の思考の動きは、取って代わった僕自身の思考の動きとは違うので、それを混同しないように気を配る必要がある。これを膾炙の震源になるときに間違えると、物語の進行に於いて矛盾や歪みが生じてしまう。
人口に膾炙する話というものは、整備され、一切の無駄が排除された、隙のない効率的なつくりをしているもので、創めの語り部になる僕が、その美を崩してはいけない、ということである。僕は、例えるならばぬいぐるみの中の存在だということを忘れてはいけないのだ。
――僕は話し始める。あったことの全てではなく、誰にでも伝えやすく、また伝わりやすい言葉を使って、その一部始終を。
話している間、実は僕は音を発することができない。代わりに、口から文字が空中に漏れ出ていく。漏れ出た文字は軍隊よろしく、前習え横習えをし、整列していく。最後の句点が並び終わると、そのまま音もなく霧のように霧散するのである。これを以って話は今、人口に膾炙した。
――。
「ふむ。以上かの」
「以上だ」
「うーむ。今回の話は、じゃからして、腕っ節のないお前さんにぴったりじゃったようじゃな」
「どういうことだよ」
「決して勝てないけれど正義。わかりやすく纏めるならこんな所じゃ。いくらぼろぼろにされようとも、相手には傷一つ負わせることができなくとも、最終的には極限に直前の場面で、事の起こりを防いでおる。お前さんがいたその場面は、弱い彼が、決して勝てないことについて精神的に参っておった時期じゃ。それでも正義を振るわなければならない場面での葛藤を、作者は描きたかったようじゃの。じゃからお前さんは、一旦あの場から去らなければ、否逃げなければならなかったのじゃ」
「そうか。でもそれじゃおかしいぜ」
「なにがじゃ」
「ぼこぼこにされたとはいえ、実質僕はあの四人に勝ってるんだぜ? さっき言った、靄からでてきた消しゴム。胸ポケットに入れていたんだけど、あれに当たった途端、みんな消えて行っちまったんだ。文字通りの消滅だ。蒸発、って言ってもいい。あんたの話と比べると、決して勝てないのに、勝ってることにならないか? まあ、そのすぐ後に丸印、句点がでてきて帰ってこれたんだけど」
「それはの、その消しゴムはつまり、作者の思いじゃ」
「思い?」
「うむ。残留思念といってもよいかもしれんの。お前さん、暗闇が出た時点で物語が途切れるのはわかっておるよな」
「ああ」
「そうなればその後の展開は基本的にお前さんに委ねられる。お前さんの思うように事はある程度進む。じゃが、消しゴムがでてきたこと、そして四人の巨漢を消し去った瞬間に句点が現われ、物語に区切りがついたことを考えれば、作者は設定を曲げてでもこの物語を消し去りたかったみたいじゃの」
「だから消しゴム、か。でもなんでそんなにも」
「デリカシーがないのう。ここから先はプライバシー、詮索無用じゃ」
「うっ。いや、じゃあ、そんなになら、作者は設定を変えて物語を自分で終わらせてもよかったんじゃないか」
「世の中には色んな人間がおる。この作者は、自分でそうすることを善しとしなかったのじゃろう。誰か代わりに、と心の奥底で願ったのかもの。じゃから、そのためのぼくらでもあるのじゃよ、先生。ほれ」
といつの間に注いだのか、白めのココアが入ったコップを僕に渡す。
「なるほど、そういうこともあるのな。しかしなんだ、教えられている相手から先生呼ばわりか…」
ココアを啜りながら、独りごつ。
「ん? 何か言ったかの、先生」
「あのなー、先生先生って――」
突然大きな音を立てて扉が開かれた。
「先生? なんで急に先生なんだよ。僕のことは小間使いか何かとしか思っていないくせに」
「うーむ。しかしあらゆる人物像に似せる練習は、普段からでもつんでおくものじゃよ」
「あー、そう」
「それで、素手で倒してきたということかの」
「でも、これでも一応教員免許は持ってんだ。似せるも何も、ないだろうに」
「それで、素手で倒してきたということかの」
「…あー、ぼこぼこにされ―」
「ほんとうに腕っ節がないのう」
「うるせえ。夢の中にいるみたいで動きにくいし、頭も働かねーんだよ」
「おまけに言い訳がましい。情けない男じゃて」
「事実じゃねえか。これのどこが言い―」
「だから言っておるのじゃ。物語に入り込む以上、役作りというものが必要じゃと。よいか、お前さんが向こうに行ってまず初めにすることは、物語を導くことではない、それは本題に入ってからじゃ。それまでは―」
指をぱちんぱちんと鳴らす。
「『それまでは己が人物像を知ることじゃ。取って代わった人物の氏名を知り、その使命を知る。ならねばならぬ。為せば成る。そのうちに、その人物像とお前さん自身は、重なっていく。いわゆるシンクロじゃな。そうすればその夢の中のような違和感とやらは去っていくわい。なのになんじゃ、お前さんは』はいはい、もういいよ、聞き飽きた。食傷、食傷」
「おや? なんじゃ、先生。ぼくの真似はできるようじゃの。お前さんは、ぼくとはシンクロしそうじゃ」
「誰が好き好んであんたなんかになるか」
今、いつもの事務所で、僕はこの老人と話している。事務所は木造で、歩けば床がめしりぎい、ぺきき、と鳴るような、古い建物である。
事務所といってもそれは便宜上そう呼ぶと耳障りがないからそう呼んでいるだけで、その実態は仕事用のデスクもない、田の字の羽目殺し窓が一つだけある、実験室である。
乱雑に置かれた多くの器具は、攪拌するぐもぐもという音や、ピストンが動くしょこしょこという音が鳴っていて、いつの時間にも鳴り止むことはない。
戦犯はこの老人の行っている実験である――何の実験をしているかはわからないが。
今も彼は話しながら、なにやらステンレス製の、ウツボカズラに似た小さな容器から、加熱しているビーカーに、得体の知れない液体を注ぎ込んでいる。縦よりも横に大きい老人。拉げた団子鼻を顔中央に付け、脂肪が顔下部に沈殿していて顎がなく、頭頂部は禿げ上がっている。そこに、瞳が円らときているのだから、一見すると、好々爺の印象を人に与える。が、果たしてその実態は、憎たらしい説教じじいである。
「ではそろそろ、膾炙の震源となってくれんかの」
「あ? あー、そうか」
膾炙。かいしゃ。人々に広まると言う意味である。その震源になるということは即ち、僕が物語の中に入ってからの顛末を、ひとくさり話すという意味である。
文面のように淀みなく、余分な部分は排除し、淡々と区切りまで語らなければならない。無事話し終えると物語は、人を伝うという目的を果たされる。
しかし、登場人物の思考の動きは、取って代わった僕自身の思考の動きとは違うので、それを混同しないように気を配る必要がある。これを膾炙の震源になるときに間違えると、物語の進行に於いて矛盾や歪みが生じてしまう。
人口に膾炙する話というものは、整備され、一切の無駄が排除された、隙のない効率的なつくりをしているもので、創めの語り部になる僕が、その美を崩してはいけない、ということである。僕は、例えるならばぬいぐるみの中の存在だということを忘れてはいけないのだ。
――僕は話し始める。あったことの全てではなく、誰にでも伝えやすく、また伝わりやすい言葉を使って、その一部始終を。
話している間、実は僕は音を発することができない。代わりに、口から文字が空中に漏れ出ていく。漏れ出た文字は軍隊よろしく、前習え横習えをし、整列していく。最後の句点が並び終わると、そのまま音もなく霧のように霧散するのである。これを以って話は今、人口に膾炙した。
――。
「ふむ。以上かの」
「以上だ」
「うーむ。今回の話は、じゃからして、腕っ節のないお前さんにぴったりじゃったようじゃな」
「どういうことだよ」
「決して勝てないけれど正義。わかりやすく纏めるならこんな所じゃ。いくらぼろぼろにされようとも、相手には傷一つ負わせることができなくとも、最終的には極限に直前の場面で、事の起こりを防いでおる。お前さんがいたその場面は、弱い彼が、決して勝てないことについて精神的に参っておった時期じゃ。それでも正義を振るわなければならない場面での葛藤を、作者は描きたかったようじゃの。じゃからお前さんは、一旦あの場から去らなければ、否逃げなければならなかったのじゃ」
「そうか。でもそれじゃおかしいぜ」
「なにがじゃ」
「ぼこぼこにされたとはいえ、実質僕はあの四人に勝ってるんだぜ? さっき言った、靄からでてきた消しゴム。胸ポケットに入れていたんだけど、あれに当たった途端、みんな消えて行っちまったんだ。文字通りの消滅だ。蒸発、って言ってもいい。あんたの話と比べると、決して勝てないのに、勝ってることにならないか? まあ、そのすぐ後に丸印、句点がでてきて帰ってこれたんだけど」
「それはの、その消しゴムはつまり、作者の思いじゃ」
「思い?」
「うむ。残留思念といってもよいかもしれんの。お前さん、暗闇が出た時点で物語が途切れるのはわかっておるよな」
「ああ」
「そうなればその後の展開は基本的にお前さんに委ねられる。お前さんの思うように事はある程度進む。じゃが、消しゴムがでてきたこと、そして四人の巨漢を消し去った瞬間に句点が現われ、物語に区切りがついたことを考えれば、作者は設定を曲げてでもこの物語を消し去りたかったみたいじゃの」
「だから消しゴム、か。でもなんでそんなにも」
「デリカシーがないのう。ここから先はプライバシー、詮索無用じゃ」
「うっ。いや、じゃあ、そんなになら、作者は設定を変えて物語を自分で終わらせてもよかったんじゃないか」
「世の中には色んな人間がおる。この作者は、自分でそうすることを善しとしなかったのじゃろう。誰か代わりに、と心の奥底で願ったのかもの。じゃから、そのためのぼくらでもあるのじゃよ、先生。ほれ」
といつの間に注いだのか、白めのココアが入ったコップを僕に渡す。
「なるほど、そういうこともあるのな。しかしなんだ、教えられている相手から先生呼ばわりか…」
ココアを啜りながら、独りごつ。
「ん? 何か言ったかの、先生」
「あのなー、先生先生って――」
突然大きな音を立てて扉が開かれた。