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いちしのはな

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・・・けれど、振り払っても振り払っても心の奥に棲みついた狂気は戻って来て、朝も昼も夜も、この想いが消えることはないのです。
私はどうにか想いを整理しようとして、自分の想いを小説に致しました。
・・・いいえ、それは、私が自分自身を落ち着かせるためだけの、小説などとは決して言えないような拙い落書きのようなものです。誰にも見せるつもりもなく、登場人物が誰になぞられて描かれているのか、分かる様なものでも無かった筈です。

けれど・・・あの日、本棚の中の私が最も好きな父の学書に挟んでおいたそれを、父に見られてしまったのです。

父は、何も言いませんでしたが・・・数日後、突然、門田様を独逸に留学させるつもりだ、と言われたのです。
私は直ぐに理解致しました――父に、私の想いを全て気付かれてしまったと。
そのために門田様は異国の地へ赴かなければならなくなった、と。


「門田様・・・申し訳ございません。・・・父はあなたの研究熱心さ、理智に富んだ見識に、大変感心しておりました。きっと、私がこのような思いを抱くことなど無ければ・・・父はあなたをずっと傍に置き、後継者として素晴らしい学者様になれるよう、幾らでもご尽力なさるおつもりだったはずです・・・。それなのに・・・・。すべて、すべて、私のせいなのです。それでも、」

私が罪深いのは、それだけでは御座いません。
私の一番の罪は、このような事態を引き起こしてしまっても尚、この想いを捨てることが出来ないことなので御座います。


「門田様・・・お許しください、とは申し上げません。
・・・けれど・・・・どうぞ、戯言とお思いにならないで・・・私は、」







彼女の長い告白を、どの様な顔で聞いていたのかはわからない。
ただ徐々に頭の中が真っ白になり、いつからか彼女の顔ではなく、鮮やかな赤橙しか目に映らなくなってしまっていた。何を口にして良いか分からず、彼女が言葉を口にするのを、いつかの日のように突っ立ったまま聞くことしかできなかった。

暫くの沈黙の後、一陣の風がゆらりと吹き、彼女のシヨオウルをはためかせた。

それにはっとし、視線を彼女の顔に戻すと、彼女はいつの間にか視線を移動させ、土手の方を見据えていた。
眼下の曼珠沙華は、夕陽に照らされて、紅に白に光り輝いているかのようだった。
それはまさに天上の花。
夕暮れの中で見る、一炊の夢。


「私・・・」

消え入りそうなほど細い声が、再び言葉を紡ぐ。

「来月、父の知り合いの御医師様に嫁ぐことになりました、ですから、」

もう、お逢いすることは御座いません。

そう呟いた途端に、彼女の双眸から一粒ずつ、真珠が零れ落ちた。








「みちのへの いちしのはなの いちしろく ひとみなしりぬ わがこひつまは」


決して触れてはならない、と思っていた。
触れてしまえば、自分の想いに、彼女が染まってしまうから。

でも、彼女も同じ狂気に囚われていると言うのなら。


「門田、様・・・・?」

腕の中の彼女は、何が起こっているのか分からない、というように身を固くしている。

想うことすら、告げることすら、罪なのだと知っている。

けれど、この一時だけでいい。
後にはもう何も残らなくていい。
『いちしのはな』だけが憶えていてくれたならば。


「自分も、です。」

「・・・え・・・?」

「自分も、貴方を、ずっと・・・お慕いしておりました。」



腕の中の彼女の体がぴくり、と、ひとつ波打った。

「・・・小百合さんは、小説が緒方先生に見つかってしまったから、と仰いましたが・・・それはきっと違います。緒方先生が自分を独逸に留学させようと思われたのは・・・
私の想いが、先生にそれと知れたからだ、と思います・・・ですから、そんなにご自分を責めるのはお止めください・・・・

・・・そして、後生ですから、今日のことは明日には忘れて、どうぞ、・・・どうぞ、その方の元でお幸せになってください・・・」

最後の言葉は、自分自身でも呟いているかどうか分からないくらい、小さく、小さくなっていた。自分ではあなたを幸せにすることは叶わない。赦されない。
こんなにも、こんなにも、想っていても・・・それならば。

もう逢えなくても構わない。けれど、恋しいひと。どうか、どうか、幸せに。


彼女ははい、返事をする代わりに、小さく、小さく頷いた。




「・・・・門田様、曼珠沙華の花言葉を、ご存じですか・・・?」

まだ体を固くしたままの彼女が、おずおずと問いかけた。
文学を研究する以上、言葉に関しては市井の人々よりも知識があると自負している。故に、この眼下に広がる花々が、あまり良い花言葉を持っていないことは知っている。

「『悲しい思い出』、『情熱』でしたか・・・?」

「はい、そちらがおそらく一番有名なものだと思います。けれど・・・私が一番好きなものは、別にあるのです・・・」

一拍の空白ののち、彼女は呟いた。


想うはあなた一人。また逢う日を楽しみに。



「・・・私、必ず幸せになります。門田様とお約束致しましたから。」

彼女の柔らかい声が耳元で温かさに変わる。
その温かさが、誘い水のように、目元を潤ませた。

「・・・けれど、矢張り、・・・・門田様を忘れることはできません。・・・きっと、今生でも、来世でも。ですから・・・」

また逢う来世まで、あなたにまた逢えることを楽しみに、生きていくことに致します。





落暉は遠く遠く、紅さを増し、消え落ちようとしていた。
どうか、その最後の一瞬までは。
細い肩を引きよせ、絹のような髪に顔をうずめて。
来世までこの温度を忘れないように。

一炊の夢が醒めるその前に、彼女にも同じ言葉を贈ろうと、唇を動かした。





みちのへの いちしのはなの いちしろく ひとみなしりぬ わがこひつまは

道端に咲く曼珠沙華が、他の草花の中でハッと人目を引いてしまうように、
余りにも強い私の想いのせいで、私の愛しいひとが周りにそれと知れてしまったよ
出典:万葉集 作者不詳 巻十一 二四八〇
作品名:いちしのはな 作家名:月室柘榴