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いちしのはな

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人の目に触れれば、消えてしまう恋だと知っていたのに。


い ち し の は な


この恩知らず、と同期の坂本は言った。
緒方先生にこれまでどれだけ目をかけて頂いて・・・貧乏な田舎の出で、大学に残って研究を続けられたのも、その研究が軌道に乗り、この若さで研究室を持てるようになったのも、すべて緒方先生のご尽力があってこそだというのに。

そのお嬢さんに懸想するなどと。

坂本の罵倒はすべて本当のことだった。
自分は奥州の田舎の、笑ってしまいたくなるほど食うにも困る様な村に生まれ、幼いころはその村のどの子供とも同じように、常に腹をすかせ、どうしたら腹いっぱいになれるかばかりを考えていた。もちろん、学などまるでなかった。
そんな自分が今この場所にいることができるのは、人よりもほんの少し努力の結果が出やすい頭を持っていたこと、隣に裕福な中学の教師が住んでいて、将来を見込んで援助をしてくれたこと、そして通った大学で緒方先生という素晴らしい恩師に出会えたということ。これらの幸運が、現在の自分を形成している。
村に帰れば大先生と呼ばれ、この土地でも道端で顔を合わせれば、先生ご無沙汰しております、と挨拶をされる。
だが、たとえ他人から見れば羨むような立身出世の道を歩んでいるとはいえ。
派生ではあるものの皇族の血を引き、世が世ならば姫と呼ばれていたはずの、緒方家の一人娘である彼女と釣り合いがとれるような立場ではないことは、自分自身が一番よくわかっていた。
何より、尊敬してやまない緒方先生の愛娘である。
大切な方だと思いこそすれ、それ以上の感情を持つことなど、有得ない。有得る筈が無いのだ。

それなのに。


出逢った瞬間から、一目彼女を見たときから。
自分は彼女に恋をしていた。






「みちのへの ・・・」

そこまで呟いたところで、足音に気付いた。
恋というのは本当に恐ろしいもので、足音のみでその相手が誰か分かってしまうという能力を持っている。足音すら愛おしい。自分の中にこんなにも狂気にも似た思いがあることを、彼女に出逢って初めて知った。

「門田様・・・此方にいらしたのですね」

柔らかい声色に振り返る。
彼女は気に入りの赤橙のシヨオウルをはらりとはためかせ、足袋が汚れてしまうのも厭わずに、自分の佇んでいる、ぬかるんだ土手の近くまで歩を進めてきた。

「・・・小百合さんこそ、もう陽が落ちるようなこんな時間に・・・どうなされました?」

手を伸ばせば届く、あと数歩、の所で声をかける。これ以上彼女が此方に来ないように。
これ以上距離を縮めると、自分から溢れた思いに彼女が染まってしまう。
如何かどうか、それ以上歩みを進めないよう。



想いが通じたのだろうか。
彼女は、その場で足を止め、夕暮れに目をやり、ふっと微笑った。

「家の中から夕陽を眺めていたのですけれど・・・余りにも美しかったものですから、硝子越しでは我慢が出来なくなってしまって。家の者の目を盗んでこっそり此方に来てしまいました・・・門田様は、花を?」

「ええ・・・明日の朝早くに発ちますので、最後に此方の『いちしのはな』を見ておこうと思いまして・・・」



明日の朝、独逸に向けての船に乗る。
三年ほど独逸に留学し、独逸語とその文学を学んでくること。
それはつい先日、緒方先生直々に申しつけられたことだった。
突然の申し付けではあったが、自分は特に驚かなかった。

これが、罰なのだ。
恩師を裏切る様な思いを抱いてしまった、あまつさえ、その思いを周囲に隠し通すことすらできない、その罪と罰。

来るべき時が来たのだ、と思っただけだった。




眼下には、幾千もの曼珠沙華が群生している。
緒方家の裏手にあるこの場所は、墓場が近いことで夕刻あたりになるとあまり人が寄り付かない。
けれど、折々の時期になると幾多もの花が咲き乱れ、多くの樹木や草花を愛でることができるこの場所を自分は気に入っていて、研究に煮詰まると決まって、この場所を散策するのが癖になっていた。・・・何より。
彼女と二人きりで初めて会話を交わしたのも、この場所だった。
彼女にとっては幼いころからこの場所が遊び場であり、私は新参者であったのだが、彼女はこの場の美しさを共有できる「仲間」が出来たのが嬉しかったらしく、その後、何度もこの場所で顔を合わせることとなった。

巡る季節の中で、この場所で挨拶を交わし、少しばかり文学の話をし、季節の花を眺めて。

春は菜花、菫に菖蒲、夏は蓮に山百合、向日葵。
秋は紅葉に秋桜、そして眼下の曼珠沙華。冬に花は咲かない代わりに。

想いは雪のように。
年月とともに降り積もっていった。






「『いちしのはな』・・・万葉集、ですか。」

聡明なひとだとは知っていたが、真坂、この『いちしのはな』の出典まで知っているとは思わなかった。思わず呟いていたとはいえ、失態だったかもしれない。

「・・・はい。ご存知でしたか・・・流石ですね。」

「いいえ、浅学で物を言うものですから、父にはいつも叱られます、女が学問について口を出すものでない、学問は男のものだ、と。天つ才を持っているというのならば兎も角、普通の女子は、良妻賢母であることのできる程度の学力が一番だと。・・・父は菲才な娘をもって遺憾に思っているのでしょうね・・・」


ただ一度、先生の論文があと一歩で学会の認可がおりなかった際に、自分が男性であったならば、もっと才気があったならば、父の研究の手伝いが出来たかもしれないのに、と彼女が漏らしたことがあった。何と返答して良いか、二の句が継げず、突っ立っているだけの情けない自分を自然に気遣い、彼女はそっと首をふった。

けれど、私は男性にはもうなれはしないから、女の私が出来る精一杯で父を助けたいと思うのです、と。

彼女は聡明であると同時に大変な勤勉家であり、また父親思いのひとだった。
そんな彼女の真っ直ぐな敬愛の情を、父親である緒方先生がいじらしく思わないはずがない。先生の言動の端々に、彼女への慈しみの心が見てとれ、同期の間ではそれは暗黙の了解となっていた。

「いいえ、決してそんなことは御座いませんよ。この様な事を私から申し上げるのは筋違いかもしれませんが・・・・先生は表だってこそ口には出されませんが、小百合さんが学問、特に文学に興味をお持ちなのを喜んでいらっしゃいます。小百合さんは才気のある方です、これから先、緒方先生の研究をお手伝いなさることも決して・・・・」

無理なことでは御座いません、と続くはずだった言葉を、思わず呑み込んだ。


彼女の瞳には水分がなみなみと揺れ、今にも溢れ落ちそうになっていた。


「・・・いいえ。」

それでも彼女は顔を隠すこともなく、

「私はやはり、菲才で、・・・浅はかなのです。」

毅然とこちらの目を見つめ、言葉を紡いだ。




狂気のようなこの想いを、何度も何度も捨てようと致しました。
この想いが門田様にとっては御迷惑でしかないこと、私がこのような想いを抱いていては、父と門田様のご関係に悪い影響を及ぼすことも、分かっておりました。
作品名:いちしのはな 作家名:月室柘榴