sky
知らぬ間に雨は降り止んでいた。あれだけ降っていたのに。静けさや冷たさそれぞれが、何か喜劇的なわざとらしさを感じさせていて気持ち悪かった。それから風が吹いた。それは吹き下ろす度に強くなっているようだった。水たまりにもさざ波が立った。
少年は何気なく顔を上げた。そうすると、灰色の雲の間から光が差していた。地面に広がるように降り注ぐ光の束。彼はこれまでやった事もないくらいに目を見開いて、一部始終を網膜の隅の隅まで焼き付けていた。生まれて初めて見る優しい光景だった。彼はその光の階段を地上からずっと目で追った。それは高く高く上っていくシャボン玉の幻想だった。もしもシャボン玉の世界に天国が存在しているならば、彼らは絶対にこの光の階段を辿っていくに違いない。空まで伸びる階段の先、その雲の隙間を彼は捉えた。
電波塔の中は、彼が知っている前までのそれとは違っていた。あるはずのものがなくなっていた。それは例えば、入り口に置いてあった薄汚れた招き猫だったり、階段の一段一段に積み上げられていた古本だったり、いつもテーブルの上に置いてあったコーヒーカップだった。じいさんはいつもの椅子に座っていたが、キャンバスは姿を消し、鉛筆も握ってはいなかった。じいさんは珍しく少年の方を向いてこう言った。
「最後の客がお前とは、俺も随分不幸せだな」
少年の頭は一度に起きた色々な事を整理するのに必死だったが、少年の心はその場の状況をよく理解していた。だから理由も分からないまま涙が出た。彼自身がその事に気付く為にはやはり時間が必要だった。抑えようとした時にはもう手遅れだった。
「どうした、また泣いてるじゃないか」
じいさんは少年に近寄り、大きな手のひらで少年の頬を拭った。少年がもっと素直だったら、この瞬間に喪失感でないもっと何か暖かい感情を持ったかも知れない。拭われた涙と一緒に、またしても言葉がどこかへ消え去ってしまった。じいさんの温かい手のひらに対して、彼はまるで赤子のように言葉を失って、ただ大小の嗚咽を漏らす事しか叶わなかった。そうすれば、余計にまた涙ばかりが雄弁になる始末だ。
「きっと、言わなきゃならん事がたくさんあったんだろうなぁ」
じいさんは今度は独り言ではなく、確かに少年に向けて話していた。じいさんは腰を屈めて少年の頭をなでた。
「俺は話すのが苦手だ。お前さんに言わなきゃならん事は山ほどあったんだろうが、今となっては何も言ってないのと同じだ。しかも歳のせいで何を言うか忘れちまった」
じいさんはとぼけたように笑った。
「でもそれは大した事じゃねえんだ。俺はちゃんと、言いたい事は残した。俺には絵があったからな。言葉よりは拙いが、言葉より雄弁だ。俺にはそういう逃げ道がある」
こんなに暖かく笑うじいさんを少年は初めて見た。
「だからよお、お前さんもそういうんで良いんじゃねえか。どこへも行けねえくらいなら易き道に流された方がずうっとましさ。言葉で辛けりゃ、描いてみな。描けりゃ、言葉なんて大したもんじゃねえよ」
そう言うとじいさんはどこから取り出したか、小さな平たい箱を少年に手渡した。振ってみるとカラカラと居心地の良い音を立てた。少年が不思議がっているのをじいさんは満足げに見つめていた。
少年は一人になった。じいさんは戻って来なかった。トイレに行っただけでそのうち帰って来はしないかなんて考えたが、そんなことはなかった。最後に見たじいさんの背中は思っていたよりも小さかった。
「行っちゃうの」
少し間を置いて、じいさんは背中で小さく笑った。しかし何も答えてはくれない。
「どうして」
理由を聞く理由なんてない。ただ遠ざかっていく背中にもう一度だけ振り返って欲しかった。それには、少年の投げかける言葉はあまりに脆かった。
「そんなもんだろ」
じいさんは振り返らない。
「物語の『さよなら』は意味もなく唐突にやって来るもんさ」
それでも、少年にはじいさんの笑う顔がはっきりと見て取れた。それがずっとずっと小さくなっていき、少年が手を振る前に消えてなくなった。消える直前に立ち止まって見えたせいで少年はやはり泣いてしまった。いくらそんなはずはないと思っても、心の中では悲しみがそれを欲していた。
そういえば、と彼は握ったままの小さな箱を思い出した。開けてみるとそれは何色もの色鉛筆だった。黒鉛筆ばかりかと思っていたので、少年はその意外な色彩に面食らった。並べられた一本一本の織り成すグラデーションが、その時は殊の外鮮やかに見えた。カラフルなものなんて久々に見たような気がした。
その中の一本、水色の色鉛筆に目がとまった。まだ新品だから先が尖っていて、どことなく頼りなげではあったがこれから様々なものを描き出していく気概に満ちていた。彼はそれを取り出し、そして窓越しに空の色と並べてみた。そこから何が生まれるか、何かが生まれるのかは自分次第だと突き付けられている気分だった。
窓の外に目をやると、どこから飛んできたのか、見覚えのある透明な球がぷかぷかと宙を漂っていた。そして誰かの遊ぶ声が聞こえてきた。
物語の『さよなら』が意味もなく唐突にやって来るなら、『また会ったね』ぐらいも同じ程度に不意にやって来そうなものだ。そうでなければ面白くないのだ。少年は久々の再会にビックリするじいさんの顔を思い浮かべてニヤリとした。拳で色鉛筆を握ると、そこには確かな体温が戻っていた。
電波塔の窓から見えるもの。灰色の空にただ一点、光の階段を上ったその先に、雲の隙間に微かな水色が宿っていた。