sky
シャボン玉はふわふわと不安定な動きを繰り返しながら空へ上っていく。少年は同じように二、三個シャボン玉を膨らませた後、手を止めてその行方を目で追った。シャボン玉は案外強いんだぜ、と心の中で呟いたところで魔法は起きない。風に弄ばれ、危なっかしく漂ってからはぜて消える。そうして一つ一つなくなっていく。割れる直前にシャボン玉が立ち止まって見えるせいで切なさがいっそう深まり、それが少年の胸から滲み出て彼自身を染めていった。
それは灰色。頭上を覆い尽くす空の色と一緒。少年は灰色以外の空を知らなかった。昔々は空の色は青かったらしいが、彼にしてみれば空想の事にしか思えなかった。自分たちを閉じ込め、押しやるものには灰色が一番しっくり来る。
少年は思い出したように再びシャボン玉を膨らませた。つるつるの球面には自分の顔とか、その周りにあるグレーの世界が歪んで映っていた。電線が絡まった錆びた鉄塔、ぼろぼろの鉄条網、人のいない大きな建物、そういった風景が彼を取り囲んでいた。
次の瞬間にはもう、彼はフッと息を強く突き当てていた。案の定シャボン玉は壊れた。あと少しで飛び立ちそうだったのに、シャボン玉は何の反論もせずに消えた。小さく弾ける音、その後に続いた沈黙の中で漠然とした不安が大きく膨らんでいくようだった。風の音ばかりが鈍く耳に響く。シャボン液やら何やらを全て投げ捨てて、気付いたら少年は風の吹く真反対の方向に走り出していた。走り出す前からすでに息は荒かった。
「どたばた走り込んで来たかと思えば、どうした?そんな顔して」
じいさんは少年の顔を見て言った。少年は何の事か分からなかったが、すぐに涙が自分の頬を滑り落ちるのに気付いた。知らない間に泣いていたのか、少年は驚いたようにすぐにそれを拭った。じいさんはそんな少年の様子を、いつもの椅子に座ったまま黙って見ていた。少年は、こういう時のじいさんは黙っているだけだというのを知っていたし、そうじゃなくてもじいさんはあんまり喋る人間じゃなかった。ただずっと、この電波塔から見える景色を絵にしているだけだ。この時だって、頭のどこかを通り過ぎる言葉を何とか捕まえようとする少年を尻目に、いつの間にかキャンバスに向き直っていた。
それでも、言葉が口から出かかっても、少年はそれらをいちいち噛み殺した。何かがねじ曲がっている、何かが間違っている、そんな思いばかりで歯は鋭さを増すだけだった。言いたい事があったはずなのに、全部空っぽの息となって口から漏れ出た。
「言葉にしなけりゃ、伝わらない」
突然、じいさんが独り言のように呟いた。それは木霊のような声で、その裏地にはサラサラと鉛筆を走らせる音が響いていた。じいさんは手を休めることなく、ただ描いていた。少年はそれが羨ましかった。自分は何も描けていなかった。言葉すら、手をすり抜けて遠い場所へ行ってしまうのだから。
ふと、じいさんは手を止めて、持っていた鉛筆を置いた。同時にさっきまでのサラサラいう音も止んだ。
「この電波塔は今でこそ何の役にも立たない廃墟だが、昔は幾千幾万の言葉が、ここから電波に乗って運ばれたんだろうなぁ」
じいさんは椅子から立ち上がって、傍のテーブルに置いてあるコーヒーカップを手に取った。
「言葉ってのは、伝えたい思いだ。俺たちは人間である以上、そういうのを抱え込んで生きてる。それにみんな、それがえらく大層な荷物だってのも分かってんだ」
喋っている間、じいさんは少年の方を見なかった。まるで空中に言葉を放っているようだった。それにした所でいつものじいさんだが。
「まあ、そういう苦労が嫌な輩ってのもいるがな」
じいさんは何やらカップからすすって一息つくと、今日初めて少年の方を向いた。
「俺みたいに絵を描くか、お前みたいに口下手なやつだ」
そう言って唇の端っこで小気味よく笑うと、「トイレ行ってくる」と残してじいさんは出て行った。何やらよく分からないが、少年はちょっと馬鹿にされたような気分がした。じいさんの言った事の半分も覚えていなかったが、じいさんと同類にされた事や口下手とか言って笑われた事は鮮烈に焼き付いた。とは言え、じいさんと同じ括りにされた事が何となく暖かく感じないこともなかった。
おもむろにじいさんの描きかけの絵に近づいた。一面がずっと灰色で、使っている鉛筆は見紛うことなき黒鉛筆だった。長くはない。手垢がついているから新品でもない。この他にも絵を描いているのを少年は何度か見ていたから、ずっとこれで描いていたのだと納得した。今さら確認する必要もないが、窓の外は一面にグレーに支配された世界。灰色の空に覆われた世界。なるほど、黒鉛筆で事足りるか、と少年は思った。
じいさんはトイレから戻ってきた後も椅子に座って鉛筆を走らせた。少年はそれを後ろから眺めていた。いつもこんな感じで二人は過ごしていた。少年はそれだけで、時が経つのも忘れられた。自分の手では探れない何処かに暖かみを感じていたから。
「そろそろ帰りなさい」
時計は夕方の五時頃を指していた。この時間に帰るのもいつものこと。少年は帰りがけにもう一度じいさんの方を向いた。
「昔は空が青かったらしいね」
どうでも良い事だった。それが伝えたい思いであるはずがなかった。じいさんはそれを聞いて小さく笑った。少年は少し後悔した。
「さあ、どうだったか。俺の小さい頃はそんな気もしたが、さあて、ずいぶん昔のことだから忘れちまった」
それはひどい雨の日のことだった。少年はこれと言ってやることもなく外をふらついていた。雨が降っているせいでろくに遊び回れないからだんだんと気持ちがもやもやしてきた。傘を差して目一杯に走ってみたが、傘が邪魔で疲れたのですぐにやめた。大きな水たまりをジャンプして行ったり来たりしてみたが、目が回ったのですぐにやめた。少年はその場にへたり込んで座ってしまったが、傘を握る手だけはしっかりしていた。入り込んだ雨に濡れた彼の右手は冷たく、感覚が麻痺して、どれだけ力を入れてみても空を掴んでいる気分だった。
視線も虚ろのまま、顔は目の前の大きな水たまりを向いていた。一瞬彼はそこには何も映っていないものだと思ったが、降り止まぬ雨が水面を叩くせいで映り込んだものがはっきりしていないだけだった。ただ、何も映っていなかったのだとしても、驚くこともないだろうなと彼はぼんやり思った。
どこに行こうか。それはどうしようもない質問だった。このまま座っていても、どこかへ行くにしても、結局どこへも到着できない気がした。だから質問自体が無意味になった。けれども、僕の行くべき場所がないとしても、僕を待ってくれている何かがありはしないか、とも思った。そしてそういう結末があるなら救われるような気がした。少年とは無関係な次元でそういう場所が存在しているのなら、少年はある意味では主人公になれた。物語の主人公はいつだって、望んでヒーローになるのではなく、自分の意思とは無関係な何かに仕組まれて結果的にそうなるのだから。ただ、そんな事を考えていては自分の行き場のなさを肯定するようで惨めだ。少年は考えるのをやめた。どう足掻こうとヒーローにはなれそうにない。
それは灰色。頭上を覆い尽くす空の色と一緒。少年は灰色以外の空を知らなかった。昔々は空の色は青かったらしいが、彼にしてみれば空想の事にしか思えなかった。自分たちを閉じ込め、押しやるものには灰色が一番しっくり来る。
少年は思い出したように再びシャボン玉を膨らませた。つるつるの球面には自分の顔とか、その周りにあるグレーの世界が歪んで映っていた。電線が絡まった錆びた鉄塔、ぼろぼろの鉄条網、人のいない大きな建物、そういった風景が彼を取り囲んでいた。
次の瞬間にはもう、彼はフッと息を強く突き当てていた。案の定シャボン玉は壊れた。あと少しで飛び立ちそうだったのに、シャボン玉は何の反論もせずに消えた。小さく弾ける音、その後に続いた沈黙の中で漠然とした不安が大きく膨らんでいくようだった。風の音ばかりが鈍く耳に響く。シャボン液やら何やらを全て投げ捨てて、気付いたら少年は風の吹く真反対の方向に走り出していた。走り出す前からすでに息は荒かった。
「どたばた走り込んで来たかと思えば、どうした?そんな顔して」
じいさんは少年の顔を見て言った。少年は何の事か分からなかったが、すぐに涙が自分の頬を滑り落ちるのに気付いた。知らない間に泣いていたのか、少年は驚いたようにすぐにそれを拭った。じいさんはそんな少年の様子を、いつもの椅子に座ったまま黙って見ていた。少年は、こういう時のじいさんは黙っているだけだというのを知っていたし、そうじゃなくてもじいさんはあんまり喋る人間じゃなかった。ただずっと、この電波塔から見える景色を絵にしているだけだ。この時だって、頭のどこかを通り過ぎる言葉を何とか捕まえようとする少年を尻目に、いつの間にかキャンバスに向き直っていた。
それでも、言葉が口から出かかっても、少年はそれらをいちいち噛み殺した。何かがねじ曲がっている、何かが間違っている、そんな思いばかりで歯は鋭さを増すだけだった。言いたい事があったはずなのに、全部空っぽの息となって口から漏れ出た。
「言葉にしなけりゃ、伝わらない」
突然、じいさんが独り言のように呟いた。それは木霊のような声で、その裏地にはサラサラと鉛筆を走らせる音が響いていた。じいさんは手を休めることなく、ただ描いていた。少年はそれが羨ましかった。自分は何も描けていなかった。言葉すら、手をすり抜けて遠い場所へ行ってしまうのだから。
ふと、じいさんは手を止めて、持っていた鉛筆を置いた。同時にさっきまでのサラサラいう音も止んだ。
「この電波塔は今でこそ何の役にも立たない廃墟だが、昔は幾千幾万の言葉が、ここから電波に乗って運ばれたんだろうなぁ」
じいさんは椅子から立ち上がって、傍のテーブルに置いてあるコーヒーカップを手に取った。
「言葉ってのは、伝えたい思いだ。俺たちは人間である以上、そういうのを抱え込んで生きてる。それにみんな、それがえらく大層な荷物だってのも分かってんだ」
喋っている間、じいさんは少年の方を見なかった。まるで空中に言葉を放っているようだった。それにした所でいつものじいさんだが。
「まあ、そういう苦労が嫌な輩ってのもいるがな」
じいさんは何やらカップからすすって一息つくと、今日初めて少年の方を向いた。
「俺みたいに絵を描くか、お前みたいに口下手なやつだ」
そう言って唇の端っこで小気味よく笑うと、「トイレ行ってくる」と残してじいさんは出て行った。何やらよく分からないが、少年はちょっと馬鹿にされたような気分がした。じいさんの言った事の半分も覚えていなかったが、じいさんと同類にされた事や口下手とか言って笑われた事は鮮烈に焼き付いた。とは言え、じいさんと同じ括りにされた事が何となく暖かく感じないこともなかった。
おもむろにじいさんの描きかけの絵に近づいた。一面がずっと灰色で、使っている鉛筆は見紛うことなき黒鉛筆だった。長くはない。手垢がついているから新品でもない。この他にも絵を描いているのを少年は何度か見ていたから、ずっとこれで描いていたのだと納得した。今さら確認する必要もないが、窓の外は一面にグレーに支配された世界。灰色の空に覆われた世界。なるほど、黒鉛筆で事足りるか、と少年は思った。
じいさんはトイレから戻ってきた後も椅子に座って鉛筆を走らせた。少年はそれを後ろから眺めていた。いつもこんな感じで二人は過ごしていた。少年はそれだけで、時が経つのも忘れられた。自分の手では探れない何処かに暖かみを感じていたから。
「そろそろ帰りなさい」
時計は夕方の五時頃を指していた。この時間に帰るのもいつものこと。少年は帰りがけにもう一度じいさんの方を向いた。
「昔は空が青かったらしいね」
どうでも良い事だった。それが伝えたい思いであるはずがなかった。じいさんはそれを聞いて小さく笑った。少年は少し後悔した。
「さあ、どうだったか。俺の小さい頃はそんな気もしたが、さあて、ずいぶん昔のことだから忘れちまった」
それはひどい雨の日のことだった。少年はこれと言ってやることもなく外をふらついていた。雨が降っているせいでろくに遊び回れないからだんだんと気持ちがもやもやしてきた。傘を差して目一杯に走ってみたが、傘が邪魔で疲れたのですぐにやめた。大きな水たまりをジャンプして行ったり来たりしてみたが、目が回ったのですぐにやめた。少年はその場にへたり込んで座ってしまったが、傘を握る手だけはしっかりしていた。入り込んだ雨に濡れた彼の右手は冷たく、感覚が麻痺して、どれだけ力を入れてみても空を掴んでいる気分だった。
視線も虚ろのまま、顔は目の前の大きな水たまりを向いていた。一瞬彼はそこには何も映っていないものだと思ったが、降り止まぬ雨が水面を叩くせいで映り込んだものがはっきりしていないだけだった。ただ、何も映っていなかったのだとしても、驚くこともないだろうなと彼はぼんやり思った。
どこに行こうか。それはどうしようもない質問だった。このまま座っていても、どこかへ行くにしても、結局どこへも到着できない気がした。だから質問自体が無意味になった。けれども、僕の行くべき場所がないとしても、僕を待ってくれている何かがありはしないか、とも思った。そしてそういう結末があるなら救われるような気がした。少年とは無関係な次元でそういう場所が存在しているのなら、少年はある意味では主人公になれた。物語の主人公はいつだって、望んでヒーローになるのではなく、自分の意思とは無関係な何かに仕組まれて結果的にそうなるのだから。ただ、そんな事を考えていては自分の行き場のなさを肯定するようで惨めだ。少年は考えるのをやめた。どう足掻こうとヒーローにはなれそうにない。