冬月さんと、祝福の世界のもとで
第一章 世界の終焉と俺と
ただ、漫画を読んでいた。それがその時の、自分にとっての正義であると
確信していた。正義というか、イデオロギーというやつは人の数だけあって
とっても厄介なものだ。でも厄介だから人は求めるのかもしれない。
ここは自分の部屋でもなければ高校の教室でもない。俺の叔父が経営して
いる漫画喫茶、自由人の個室ブースの一角である。
今は五月になる、ということは北高に入って一ヶ月ほどということになる。
学校をサボっている癖に、ちゃっかりと美術部に入っているのが自分でも笑
える。無論好き好んで入ったわけではない。一つ上の先輩に頼まれたから入
っただけで、美術について特段の関心はない。
その先輩は、御厨吉乃といって、俺と同じく一年七組に妹の御厨紫がいる。
俺はこの先輩に対しては、羨望の眼差しと劣等感を等しく感じていた。なぜ
なら、御厨吉乃とは学業の才能の面で、話していて断絶を感じるからである。
江戸時代と明治維新ほどの差を感じてしまう。
この二人について論ずるなら、姉の方は長身でかわいいというよりも美し
いといった所か。妹のほうがちっこくてかわいい。男には妹君の方が人気が
あるようだが。妹は姉の影に引っ込み思案的な感がある。
元々、この二人とは小学校の頃は面識がなかったんじゃないか、という気
がする。中学生に入ってから知り合ったはずだ。厳密には塾で知り合った。
塾に中一の二学期に入って、いきなり一位を取って目立ってた頃に、向こう
から話しかけてきたように記憶している。
今から考えると何故冴えない一介の男に話しかけてきたのかよくわからな
い。もっとも、冴える冴えないといっても成績が一位であった時点で十分冴
えていたと言われてしまえばそれまでだが。
御厨姉に言わせれば、俺は見込みがあるんだと。何に対して見込みがある
のかは教えてくれないので謎である。
それは、俺から見ると才能の塊である御厨姉の言ったことなので僅かばか
り俺の心の支えとなった。
それ以来、御厨姉妹とは知り合いというやつである。向こうはどう思って
いるか知らないが、少なくとも俺はそう思っている。
御厨姉は完璧超人である。それは文字通りの意味で、学業は一位で運動も
芸術も出来る。ちなみに美術部部長である。世の中にはこういう人もいるん
だと、身近で見てると感心する。御厨妹はそこまでではない。妹の方も姉ほ
ど完璧超人だったら世の中出来過ぎている。
神の与えた奇跡……なんて言ったら言い過ぎかもしれないが、取り敢えず
は御厨姉にはそんな印象を持っている。
だが個人的には御厨妹の方に好感を持つ。完全なものほど壊れやすいんだ
と俺は思う。そういう感想を御厨姉を見て思ってしまうのは俺の傲慢、ある
いは見当違いか何かであろうか。いつか壊れそうで不安になる。
不意に背後でノックの音がする。俺は半ば反射的に応える声を出す。
そうすると無言で何やらブースの扉を開く音がする。その時発生した音か
ら推察するにお盆を持っているようだ。さっきパソコンの時計を見たら十一
時程だったので、もう十二時でおかしくない。
「お昼持ってきたよ」
そうやって、やっつけ仕事的な発言とともにお盆をこっちに向けてくる。
そのお盆の主は、二乃宮秋子さんといって、俺は二乃宮さんと呼んでいる
。ここのバイト長である。地元の国立大学を卒業後、ここでフリーター……
妙に生々しい。バイト長っていっても、もう半分社員みたいなものだ。年齢
は知らないし、聞かないほうが良いと思ってるが、若いことは確かである。
なにぶん、詳しいことはオーナーの叔父しか知らない。
「今日も学校はサボり?」
二乃宮さんの声には、何も非難めいた感じはしなくて不思議に思った。そ
れは何故なのか俺にはわからない。理解する必要はあまりないのかもしれな
い。
俺は二乃宮さんにこう言われると、何だかこそばゆい感覚に襲われてなら
ない。それは、二乃宮さんに母性を感じているのからかもしれない。果たし
て御厨姉妹に同じことを言われて母性を感じるのだろうか。二乃宮さんにし
か感じないような気がするんだよな。でも、二乃宮さんには、特に恋愛感情
は持っていない。年上への憧れだろうか。考えてみれば、大学卒業して数年
経ったとしたら、二十代中盤という計算でいいはずだ。一桁後半の年齢だけ
離れていることになる。世代が違うと言っても良いかもしれない。
「うーん、どうかな?」
俺は適当に答える。
「適当だなあ、おい。そんなんで卒業できるのか? 新井叔父さんに何て言
うつもりなの?」
「まぁなんとかなるでしょ」
「あーそう」
そうやって言うと、二乃宮さんはお盆に置いた肉うどんを俺に差し出した。
俺は無言で受け取った。
「ああー、ニートと怠惰ってこうやって出てくるのね」
「別にニートじゃない、せめて学生と言ってくれ」
「学校に行かない人は学生とは呼びません」
「相変わらず手厳しいなあ」
そうやって俺は言い、割り箸を割り、肉うどんをすする。その姿はさぞ滑
稽に見えたに違いない。
「何で学校行かないの? そんなに楽しくないの?」
「あー、その質問には答えられないな」
俺は背中を向けたままそうやって答える。
「ていうかさ、部活は入ってるの?」
「うん、美術部にね」
「絵心があるようには見えないけど」
「うん、何もわかなんないし、この先分かる気もないし……人生と同じだよ
ね、うん。ごめん、よくわからない」
「人数合わせ的な何か?」
「まぁそうだよね。そこまで人数に困ってるようには見えないけど、頼まれ
たんだよね」
「ふーん」
二乃宮さんにそうやって訝しむような声を出した。
「二乃宮さんはさ、高校の時には何部に入ってたの?」
「何部だと思う? 言ってみ?」
「文化系じゃないかな? 運動部って感じはしないなぁ。大学、文学部じゃ
なかった? 文芸部か何か?」
「うん、大体合ってるよ。人の過去はあまりほじくり返さないこと。これが
鉄則」
何やら嫌な過去でもありそうな感じであった。よくよく考えて見れば、大
学を出てここにいる時点で気づいても良さそうだった。
二乃宮さんは、これ以上何も言わずに出ていった。その背中は悲しそうだ
った。
大体というのは一体どういう意味だろうか。ずばりその通りなら、大体と
いう表現は人間しない。何か含みがあるのだと思うが。
大体、二乃宮さんのことは何も知らないに等しい。この漫画喫茶に来るよ
うになってから二ヶ月ぐらいしか経っていないし。
そもそも、考えてもみれば、何をどれ位知ったら、その人を知ったという
ことになるのだろうか。定量的な規定などあるはずもない。
そうやって考えていると、ますます何もかもが理解できなくなっていくか
のような感覚にとらわれていく。
ふと意識の隅で、携帯電話が振動して低い音を立てていることに気づく。
誰だろうと思い、携帯電話を開き、画面を見てみると、御厨姉の名前が出て
いた。
内心何の用か、皆目わからないが、取り敢えず電話に出てみることにする。
「もしもし、先輩ですか? どうしたんですか? まだ学校終わってないで
すよ?」
作品名:冬月さんと、祝福の世界のもとで 作家名:白にんじん