星よりも儚い 神末家綺談1
はじまり
あれは暑い夏だった。小学生のときだろう。不思議で、不気味で、そして悲しく儚い様々なものに触れた夏。
命には限りがあって。世界にはどうしようもない不条理があって。
なのに星空は美しくて空は果てしなく高くて。
あの汗ばんだ手のひらは、どうしようもなく愛おしくて。
この世界で生きてゆきたいと、そう思えた夏の記憶。
大人になった今でも、鮮明に思い出すことのできる夏。
強い日差し。逃げ水。セミの声。夕暮れ時、すみれ色の空。
ひまわり。沢の水の冷たさ。静かな午後のまどろみ。畳と蚊取り線香の匂い。
そして。
あの、ミルクティー色をした髪と。
真夏でも冷たかった、硬い指の感触――――
バス停から村までの道が、果てしなく長く感じられる夏の日の午後。終業式を終えたランドセルには通知表だけしか入っていないはずなのに、暑さのせいかやけに重い。
国道を逸れて入る小さな村道。山の木々は滴るような緑を晒し、セミの勢いを後押しするかのように、瞳の奥にまで迫ってくるようだった。
「じゃあ、飯食ったら神社に集合で」
「作戦会議だから。遅れんなよ」
集落の入り口、駄菓子屋のある四辻で、幼馴染がそう言って手を振った。伊吹(いぶき)は彼に頷き返すと、我が家を目指して走る。
山奥の小さな村だ。中央を走る大きな道が幾重にも分かれ、その脇に家々が点在している。伊吹の家は、この村の中央をまっすぐ山へと向かう。山へ向かう麓の坂道に、大きな鳥居が見えていた。
村の祭祀を司る家。ここが伊吹の家だ。
境内を突っ切り奥へ進むと、平屋の屋敷が見えてくる。喉の渇きを思い出し、伊吹は開け放たれた玄関に勢いよく飛び込んだ。
「ただいま」
声をかけると、奥から祖母が顔を出した。割烹着の腕をまくり、優しく微笑んでいる。
「おかえり伊吹。暑かったろう。素麺があるよ」
「うん、すぐ食べるよ」
「手を洗っておいで」
奥の座敷にランドセルを放り投げて、洗面所に走る。冷たい水で顔を洗うと生き返る心地がした。身体中にまとわりついた熱気が、少しだけ霧散していく。家の中は涼しい。開け放たれた家中の窓や縁側から、山から下りてくる心地よい風が吹き抜けていた。
「学級委員の仕事も積極的に頑張ってくれました、だってさ」
聴きなれた声に振り向くと、一人の青年が柱に寄りかかってニヤニヤしながら伊吹を見ている。その手には、伊吹の通知表が見えた。
「勝手に見るな」
「さすがは次代のお役目様。人の上に立つだけの器ってとこか。こんな幼いみぎりより、それが発揮されているということだね」
伊吹は黙って、背の高い青年から通知表を奪い返す。ミルクティー色の髪が、伊吹をからかうようにふわふわと揺れている。伊吹は青年を睨み返した。青年は嬉しそうに笑っている。
「なんだよ、褒めたのに」
「嘘付け、嫌味のくせに」
忍び笑いを背に、伊吹は居間へと戻る。腹が立つったらない。苛立ちをそのままに通知表を畳みの上に放り投げる。
「どれ、伊吹の一学期はどうだったかな」
「あ・・・」
足元に落ちた通知表を拾ったのは、薄手の和服に身を包んだ穂積(ほづみ)だった。皺の刻まれた手がそれを拾い上げて開く。目元に柔らかな笑みが浮かぶのが見えた。
「頑張ったな。算数も、国語も、理科も社会も二重丸」
そう言って微笑む穂積に、伊吹の先ほどの苛立ちは吹き飛んだ。この人に褒められると底抜けに嬉しい。だってじいちゃんは、嘘をつかないから。
「穂積、まァた甘やかして。褒めて伸ばすより、挫折を学ばせたほうが効くこともあるよ。これはおまえの跡継ぎなんだぞ」
伊吹は振り返って青年を睨んだ。年の頃は17か18か、青年の名は瑞(みず)という。
「瑞よ、挫折させようにも悪いところがないからな。伊吹はよく頑張ってるな」
穂積はそう言って微笑み、伊吹の頭を優しくなでた。誇らしいような、くすぐったいような気持ちに、伊吹はこっそり笑みを浮かべる。
夏が始まる。
伊吹にとって、忘れられない夏が。
作品名:星よりも儚い 神末家綺談1 作家名:ひなた眞白