イキモノⅡ
一種の期待のようなモノを、私は抱いていたのだ。それは、淡い色合いの官能を宿していたけれど、さしたる問題ではない。
しかし、努めて眠っている時点ではやはりだめなのか、期待が満たされるようなことは決してなかった。
印画紙の瞳は、その大部分が漂白され尽くしていた。この蝶の持つ透明な色彩が洗い流してくれたのか、以前ほどにあの蒼色を感じない。
その代わりに、私は、この場所へ逃げてきた経緯を思い出しつつあった。廃ビルへ逃げなければならなかったその理由である。
それは、人にすれば。実際、私からするととても些細な出来事なのであえて口にしようとは思わないが、回りくどい言い方をすると、どうにも、世間的なタブーを犯したのだ。私は。それが、致命的なまでにどうしようもない程度だったために。好奇心で足を踏み外したとか、境界線上から足を少しだけ踏み出したという程度ですんでいなかったが為に、私は逃げ出したのだ。この場所へ至るまで。
手指に、一瞬だけ柔らかな感触が蘇った。皮の向こうに感じた柔らかな生命の脈動を思い返す。
だが、それらの感触も。逃亡の原因への回顧も、実像を結ぶ前にはらりはらりと落ちていく。蝶が、いつの間にか私の眼前を舞っていた。
私は、一つの決意を胸にすっくとその場に立ちあがった。蝶は、私に寄り添うようにして右隣を飛んでいる。
気がつけば、窓枠の下には階段があった。中途半端な奇数の階段である。
私は、その階段を一歩一歩踏みしめるようにして上がっていく。眼前には、狂おしいほどの奔流がある。蝶の群だ。蒼の色彩を帯びたそれは、いまや、世界を覆い尽くしていた。
私は、窓枠にたどり着くと両手を広げた。吹き付ける風の一切がなかったけれど、代わりに、蝶が右肩に止まってくれた。それを頼りに、私はさらに一歩を踏み出した。中に私の体が舞う。
印画紙の瞳の中を、猛烈な勢いで蒼の色彩が下から上へと流れていった。右から左ではないその光景に、どこかしてやったりとした笑みがこぼれる。
風のない世界で、墜落の感触を感じつつ、私はやがて地に落ちるのだろうかと疑問に思った。落ちるとも落ちないとも、どちらとも言えるような気がする。このまま自然に行けば、地面に落ちるのは必定だ。なら、落ちないとは何なのだろうかと、考える。考えようと思った。だが、それ以上に。
ああ、眠い。失落の最中、美しいイキモノの群がる己を幻視した。