イキモノ
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■ イキモノ
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◆
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――寝て、起きると蝶が散る。
ビルを織り成していたかつての建材に囲まれながら、自分は灰色の空に目をさます。逆しまの渦を描いて蝶が空へと還っていった。
瞳に映し出されるのは空飛ぶ蝶の色彩。モノクロームを切り裂く鮮烈な蒼色。
自分は耐えられない罪科を犯して、この薄汚れた廃ビルへ落ち延びてきた。来て以来、幾日か。いまいち判然としない。この場所に来て数日は、昼間になにをするでもなく空を見上げ、夜ともなれば、電気のない完成された世界の中で、眠れもせずに漫然と過ごしていた。そうしているうちに、自分はこの世界に蝶を見るようになった。
蝶――この、いま自分が見つめる世界において、唯一色をもつ存在。曖昧模糊としたモノクロ配色を切り裂く、イキモノ。
初めは何の冗談だろうと思ったが、観察しているうちに、その数が増えていった。
一羽、二羽。つがいだろうか。だが、まだ増える。三羽、四羽。その繰り返しで、今では、窓の外、一面が蝶に覆われている。
そこまで行くと、冗談だと考えた自分の考えが浅はかに思え、やがて考えるのを放棄するにいたった。考えたところで仕方がない。なにしろ、自分は罪を犯し、そしてこの場所へ逃げてきたのだから。
だが、なにかすることがあるわけでもないので、この場所で過ごすうちに、自然と、自分はこの蝶の観察を始めた。
その観察からすると、なにやらこれら蒼の蝶には幾ばくかの法則性……いや、習性と呼ぶべきものが存在するようだった。
まず、この蝶は基本的に自分が起きている間はこの部屋へと入ってこない。部屋というのはこの廃ビルの一室のこと。屋根は辛うじてあるが、壁の大半も、窓枠すらも剥がれ落ちた見るも無惨な建材山だが、蝶は眼前に自分が数人横たわれるほどに開かれた窓を通って、この部屋へは入ってこない。唯一例外があるとすれば、それは自分が目をさました時に限る。渦を描いて空へと還るあの光景だけが、蝶がこの部屋へ侵入している唯一だ。
次に、この蝶はどこかを目指して進んでいるようだった。それは渡り鳥の習性に似ているのかも知れない。蝶は、自分から見て、窓の右から現れ左へ消えていく。その流れが途絶えることはない。ただゆらゆらと舞う、蒼の色彩だけが瞳を灼くのみだ。暫くこの場所で過ごしている間に、自分の瞳が印画紙になった錯覚を覚えるほど、その光景は変わりなく延々と続けられた。蒼の色彩が瞳を灼くのだ。印画紙の瞳を。
世界にはモノクロ配色の世界と、蒼の色彩しか存在しない。
罪科を得た自分が、逃げた先で手に入れたのはこの二つだけだった。
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◆
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――寝て、起きると蝶が散る。
万羽億羽の蝶が、モノクロ配色を切り裂いて、逆しまの渦を巻き、空へ空へと還っていく。
窓の外には、いつもと代わらぬ蝶の大群。右から左へと流れる蒼の奔流だ。
この場所に来て幾日めかのこと。変化のない世界に、闖入者が現れた。
それは、一人、少女の姿をしたイキモノだ。
少女は、蝶を観察している自分のまえにふらりと窓の外から現れた。壊れた窓枠をくぐり、自分の方へと頼りない足取りで近づいてくると、まるでそこが定位置であるかのように、自分の右隣へ腰を落ち着けた。蝶いがいの色彩を見るのは久しぶりだったので自然と自分の視線は、少女に釘付けになった。傍らの少女は灰色の肌をモノクロ配色で汚し、長い黒髪を持ち、枯葉の様な掌に枯れ枝の手と、朽ちた枝葉の足を持っている。
少女は呼吸をしていた。すぅ、はぁという口から空気がはき出される音に蝶が呼吸をしているのかという好奇心を覚える。胸の辺りが大きくなったり小さくなったりする挙動よりも、肩が上下する挙動の方がよほど目に止まった。
いわゆる、体育座りをしている少女は、抱えた足をしきりに撫でていた。寒いのかともおもうが、その挙動は酷く緩慢な動きで、なにかクリームを塗っているようだった。その想像を思い浮かべると、不思議なことに、少女の動き全体がぬめりをおびて見え始めた。ぬるぬるとした粘着質の液体にまみれた魚介類が横で呼吸をしている感触に、腰の裏側あたりで背骨が震えた。
少女をひとしきり観察し終えると眠気が来たので、自分は眠ることにした。
万羽億羽の蝶が、今日も右から左へ流れていく。
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◆
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――寝て、起きると蝶が散る。
逆しまの二重螺旋が空へとのぼっていった。
蒼の色彩が印画紙の瞳を灼く。
感触を覚えて、右隣を見ると少女の頭が肩に乗っている。そのおもみに、ぬめりを覚えて心の底でぞっとした。
視線を少女へ向けると、そこには神秘的におぞましい光景が、まるで一等の部屋を彩る絵画の趣で存在した。
少女は、蝶に群がられていた。
ただ、少女のすべてを覆うほどという数ではなく、しかし、確かに蝶は少女に群がっている。ところどころ見えるモノクロ配色と見分けのつかない肌がそれを証明していた。
蝶たちは、少女に群がり、ただゆらりゆうらりと羽根をはためかせていた。くゆらすとでも表現したい、緩慢な動き。音のない世界に鮮烈な色彩が、少女をむさぼり尽くしているかのような感覚に、背徳的な官能を覚える。それは、おぞましいイキモノの交合を盗み見ているというよりは、おぞましいイキモノが、朽ちた体を食まれている瞬間に立ち会った感動にほど近い。深緑の中で死んだ獣に習うその光景は静かな昂奮を自分へ呼び起こす。
その光景を眺めていると、少女がしなだれかかるしだれ柳の様な動きで目をさました。払われた露にならい、蝶たちは窓の外、逆しまの渦を描いて空へと還る。少女は、寝起きの瞳でそれを眺めていた。自分も印画紙の例にならい、その色彩を瞳に焼き付ける。モノクロ配色が切り裂かれ、蒼の色彩が脳裏に写る。
そうしていると、自分の脳裏に一つの音律が流れ始めた。
ぷぁー………………ん、という。微かな音は、やがて高音の刃になって、頭蓋という個室に納められた脳を切り裂き始める。
ぷぁーん、という高音は、サイレンの音。繰り返し、繰り返し響く音が、フィルムじみた脳内をめぐって、かき回す。やがて、脳みそも回り出したかのような錯覚に陥って、たまらず、目をまたたかせた。
■ イキモノ
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――寝て、起きると蝶が散る。
ビルを織り成していたかつての建材に囲まれながら、自分は灰色の空に目をさます。逆しまの渦を描いて蝶が空へと還っていった。
瞳に映し出されるのは空飛ぶ蝶の色彩。モノクロームを切り裂く鮮烈な蒼色。
自分は耐えられない罪科を犯して、この薄汚れた廃ビルへ落ち延びてきた。来て以来、幾日か。いまいち判然としない。この場所に来て数日は、昼間になにをするでもなく空を見上げ、夜ともなれば、電気のない完成された世界の中で、眠れもせずに漫然と過ごしていた。そうしているうちに、自分はこの世界に蝶を見るようになった。
蝶――この、いま自分が見つめる世界において、唯一色をもつ存在。曖昧模糊としたモノクロ配色を切り裂く、イキモノ。
初めは何の冗談だろうと思ったが、観察しているうちに、その数が増えていった。
一羽、二羽。つがいだろうか。だが、まだ増える。三羽、四羽。その繰り返しで、今では、窓の外、一面が蝶に覆われている。
そこまで行くと、冗談だと考えた自分の考えが浅はかに思え、やがて考えるのを放棄するにいたった。考えたところで仕方がない。なにしろ、自分は罪を犯し、そしてこの場所へ逃げてきたのだから。
だが、なにかすることがあるわけでもないので、この場所で過ごすうちに、自然と、自分はこの蝶の観察を始めた。
その観察からすると、なにやらこれら蒼の蝶には幾ばくかの法則性……いや、習性と呼ぶべきものが存在するようだった。
まず、この蝶は基本的に自分が起きている間はこの部屋へと入ってこない。部屋というのはこの廃ビルの一室のこと。屋根は辛うじてあるが、壁の大半も、窓枠すらも剥がれ落ちた見るも無惨な建材山だが、蝶は眼前に自分が数人横たわれるほどに開かれた窓を通って、この部屋へは入ってこない。唯一例外があるとすれば、それは自分が目をさました時に限る。渦を描いて空へと還るあの光景だけが、蝶がこの部屋へ侵入している唯一だ。
次に、この蝶はどこかを目指して進んでいるようだった。それは渡り鳥の習性に似ているのかも知れない。蝶は、自分から見て、窓の右から現れ左へ消えていく。その流れが途絶えることはない。ただゆらゆらと舞う、蒼の色彩だけが瞳を灼くのみだ。暫くこの場所で過ごしている間に、自分の瞳が印画紙になった錯覚を覚えるほど、その光景は変わりなく延々と続けられた。蒼の色彩が瞳を灼くのだ。印画紙の瞳を。
世界にはモノクロ配色の世界と、蒼の色彩しか存在しない。
罪科を得た自分が、逃げた先で手に入れたのはこの二つだけだった。
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――寝て、起きると蝶が散る。
万羽億羽の蝶が、モノクロ配色を切り裂いて、逆しまの渦を巻き、空へ空へと還っていく。
窓の外には、いつもと代わらぬ蝶の大群。右から左へと流れる蒼の奔流だ。
この場所に来て幾日めかのこと。変化のない世界に、闖入者が現れた。
それは、一人、少女の姿をしたイキモノだ。
少女は、蝶を観察している自分のまえにふらりと窓の外から現れた。壊れた窓枠をくぐり、自分の方へと頼りない足取りで近づいてくると、まるでそこが定位置であるかのように、自分の右隣へ腰を落ち着けた。蝶いがいの色彩を見るのは久しぶりだったので自然と自分の視線は、少女に釘付けになった。傍らの少女は灰色の肌をモノクロ配色で汚し、長い黒髪を持ち、枯葉の様な掌に枯れ枝の手と、朽ちた枝葉の足を持っている。
少女は呼吸をしていた。すぅ、はぁという口から空気がはき出される音に蝶が呼吸をしているのかという好奇心を覚える。胸の辺りが大きくなったり小さくなったりする挙動よりも、肩が上下する挙動の方がよほど目に止まった。
いわゆる、体育座りをしている少女は、抱えた足をしきりに撫でていた。寒いのかともおもうが、その挙動は酷く緩慢な動きで、なにかクリームを塗っているようだった。その想像を思い浮かべると、不思議なことに、少女の動き全体がぬめりをおびて見え始めた。ぬるぬるとした粘着質の液体にまみれた魚介類が横で呼吸をしている感触に、腰の裏側あたりで背骨が震えた。
少女をひとしきり観察し終えると眠気が来たので、自分は眠ることにした。
万羽億羽の蝶が、今日も右から左へ流れていく。
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――寝て、起きると蝶が散る。
逆しまの二重螺旋が空へとのぼっていった。
蒼の色彩が印画紙の瞳を灼く。
感触を覚えて、右隣を見ると少女の頭が肩に乗っている。そのおもみに、ぬめりを覚えて心の底でぞっとした。
視線を少女へ向けると、そこには神秘的におぞましい光景が、まるで一等の部屋を彩る絵画の趣で存在した。
少女は、蝶に群がられていた。
ただ、少女のすべてを覆うほどという数ではなく、しかし、確かに蝶は少女に群がっている。ところどころ見えるモノクロ配色と見分けのつかない肌がそれを証明していた。
蝶たちは、少女に群がり、ただゆらりゆうらりと羽根をはためかせていた。くゆらすとでも表現したい、緩慢な動き。音のない世界に鮮烈な色彩が、少女をむさぼり尽くしているかのような感覚に、背徳的な官能を覚える。それは、おぞましいイキモノの交合を盗み見ているというよりは、おぞましいイキモノが、朽ちた体を食まれている瞬間に立ち会った感動にほど近い。深緑の中で死んだ獣に習うその光景は静かな昂奮を自分へ呼び起こす。
その光景を眺めていると、少女がしなだれかかるしだれ柳の様な動きで目をさました。払われた露にならい、蝶たちは窓の外、逆しまの渦を描いて空へと還る。少女は、寝起きの瞳でそれを眺めていた。自分も印画紙の例にならい、その色彩を瞳に焼き付ける。モノクロ配色が切り裂かれ、蒼の色彩が脳裏に写る。
そうしていると、自分の脳裏に一つの音律が流れ始めた。
ぷぁー………………ん、という。微かな音は、やがて高音の刃になって、頭蓋という個室に納められた脳を切り裂き始める。
ぷぁーん、という高音は、サイレンの音。繰り返し、繰り返し響く音が、フィルムじみた脳内をめぐって、かき回す。やがて、脳みそも回り出したかのような錯覚に陥って、たまらず、目をまたたかせた。