金魚
魚は死ぬまで成長し続けるのだと昔図鑑に書いてあったなと思いながら、美奈尾は赤い金魚鉢の硝子を指でつついた。白と金と青みがかった銀と黒との同心円で出来ている巨大な目玉がぎろりと回ると、底の方で丸い口がぽっかりと開いた。美奈尾の拳がすっぽり納まってしまいそうな程大きな口だった。
「何だか中国の伝記みたいな趣があるね」
「ただの金魚よ。中国でいろいろと改造される前の原種だったの」
アア、中国。と美奈尾はため息をつく。
「あの国には奇形に美を見る爛熟の文化を感じるな。日本ならせいぜい四角い西瓜とか、ポマトとか、そんな程度だ」
「種無し西瓜だって、ピオーネだって変わらないと思うけどな」
「オランダのチューリップもそう。でもやっぱり植物と動物とは違うだろう」
金魚鉢がぶるぶると震えた。底の方からひしゃげた泡が一つ、窮屈そうに水面を目指している。
「ヨーロッパの貴族達だって倭人とかそういうの囲ってたっていうよ。家畜人ヤプー、読んだことあるでしょ」
「日本って、そういう文化無いよね。見世物小屋とか、そっちへ行ってしまう」
「中国には両方あるのね。正当に扱われない畸形と、愛玩される畸形」
ひどく細長い一輪挿しの柔らかな白磁から突如として咲き誇っている巨大な牡丹の花をちらりと見て、美しさとグロテスクさとがいかに接近した感覚であるかを、美奈尾は納得しかけていた。
「でもさ、子供を小さな箱に詰め込んだまま育てるのって、四角い西瓜を作るのとはちょっと違う気がするな」
「付けたしの畸形と、欠落の畸形とがまずあって、それと全く違う次元に異形の存在があるんじゃないの。この世のものじゃない形に納まった存在って、恐怖以外の何物でもないし、四角い西瓜ってあんまり甘くなさそうじゃない」
「日本髪って、グロテスクの極みだと思うけどね。中国の纏足。日本女性の髪。そりゃ、肉体を変形させるわけじゃないけど。日本はもともと西洋から見ると畸形民族だったんだ。それが文化を持っていたから、驚かれたんだろうね。でも中国はもともと歴史ある民族だった。それなのに、肉体的には貧弱だろ。顔なんかも特徴が無いし。だから、神仙思想とか、少林寺とか、雑技団とか、より特殊な肉体、畸形的な存在を国内に置きたかったんじゃないのかな。明らかな畸形があれば、普通の中国人の優位が証明されると思ったんだろうね」
「遺伝子操作なんて真っ先にやってそうね。品種改良って事でしょ。箱詰めの子供を作るよりは簡単じゃない」
美奈尾はそう言う彼女の視線を追って、ふと金魚鉢を見た。二つの目玉が恨めし気に睨んでいるような気がした。
「でも本当に怖いのはね。意図的に作られた畸形じゃないのよ」
「やっぱり、ベトナムの枯葉剤とか、水俣の水銀、カドミウムとかそういう環境汚染の問題なのかな」
美奈尾の声は少し掠れてきていた。彼女が何を考えているのかが、分かりかけてきたからだ。そして、今の彼女がどういう状態なのかという事も、美奈尾は認めなければならなくなったのだった。真っ赤な金魚鉢が、ガタガタとゆれ始めた。美奈尾は背筋に悪寒が走って思わず腰を浮かせた。
「本当に怖いのわね。忘れられた畸形じゃないかしら。ほら、軽犯罪法かなにかで留置所に入れられた人が、お祭りかなにかですっかり忘れられて、翌朝には釈放されるはずなのに、待てど暮らせど誰も来ない。そんな事件たまにあるじゃない。もし、留置所が小さな四角い箱みたいだったらどうかしら。日一日と自分の身体が、骨が歪んでいく肉体的な苦痛、身体の一部が腐り始める匂いを嗅ぎながら、自分はどうなってしまうのか、もう二度と元にはもどれなくなってしまうのじゃないかという精神的な苦痛。そして、自分はこのまま誰にも発見されないうちに四角くなってそのまま死んでしまうんじゃないかっていう不安」
「でも、それは、意図的に箱へ閉じ込められた子だって同じことだろ」
彼女はもう美奈尾の目を見てはいなかった。美奈尾を貫いてその背後にある金魚鉢を凝視しているのだ。
「違うの。私がいってるのは、畸形の恐怖じゃないの。忘れさられる恐怖……」
突然、背後で鈍い音が響いた。何か重たい物が絨毯に落下した音だ。美奈尾はすぐに赤い金魚鉢を思い浮かべた。しかし、硝子の割れる音も、水飛沫も上がらなかった。ゆっくりと振り向いた美奈尾の視線の先には、金魚鉢は無かった。ただ、出窓を閉ざした分厚いカーテンがかすかに揺れていた。やはり、金魚鉢が落下したのだろう。美奈尾はそっとソファーの背後を覗きこんだ。
真っ赤な金魚鉢。胴がまん丸で、口がひらひらと開いているオーソドックスな金魚鉢は、微妙に歪んで横たわっていた。口の部分がすっかりひしゃげて、まん丸だった胴が楕円形になっている。そして、細かく鋭利な硝子片が、赤い鉢の周辺に散乱していた。いや、赤いのは鉢ではない。鉢の中にいた金魚の色だ。美奈尾の目の前をするりと長い髪が上下した。すると、床の上には無数の硝子片と、真っ赤な染みとが残っているだけだった。
「私ずっと、忘れてたんだこの子の事。どうしてそんな事になったのか分からないんだ。食べる物も無くて、酸素だって足りないはずなのに、第一水なんて殆ど残ってなかったはずなのに、どうして、この子は生き続けていられたんだろうって、さっきからずっと考えていたの」
彼女が両手で抱え上げているのは、赤い金魚鉢そのものだった。だが、その底には巨大な二つの眼があり、その間には、大きな丸い口が開いていた。美奈尾の拳がすっぽりと納まってしまいそうな程大きな口だ。美奈尾はその口にずらりとならんだ、歯を垣間見た。彼女が抱きかかえているのは、窮屈な金魚鉢の中で成長しつづけた何かだった。畸形が美しいなどと考えていた先ほどの自分に対して、美奈尾は激しい嘔吐感を催した。彼女はそれを美奈尾の顔の前に突き出して首をかしげた。
「私だってそうよ。美奈尾だって同じじゃない。これは金魚よね。そうでしょ。ねえ、美奈尾。この子は金魚だよね」
気を失ってはいけない。美奈尾はただその一心で目の前の赤い物を見つめた。赤く膨れ上がった顔には無数の血管が浮かび上がり、その巨大な顔を被い尽くす二つの目と、ただ二つの穴だけの鼻、そして真ん丸い口。その口がかすかに人の言葉の形に動いたとき、彼女は困惑した顔で美奈尾の腹の上へ、そいつを放り出した。腹と股とにぼてりとした重みが貼りついた。じっとりとしてぶよぶよの赤くて丸い頭が、幾度も幾度も美奈尾の腹にこすりつけられ、不器用な蠕動で這い上がろうともがいている。美奈尾はとうとう、気を失ってしまった。
おわり