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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
novelistID. 51015
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日根むら覚書

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10) 土葬の慣習は合併以来、火葬への切り替えによってなくなった。道具方も「野の方」の仕事もなくなりその分、手間がいらず楽になったが、同時に村民の結束力を弱める結果となった。しかし、今のところ村の維持管理に影響が出るところまでには至っていない。葬儀委員を始め、葬儀に参加した組員がそれぞれの役割分担をこなし、そのあと式場で食事を共にする共食の習慣がまだ続いているからであろう。ただ、キツイ労働の後の共食と違って式場のマニュアル化された飲食は本来の「共食」の意義を形骸化する恐れがある。
一方、幸いにも日根村では白山神社の祭礼の儀式が氏子によって執り行われている。高山祭のような大きな祭りではなくささやかな祭りであるが、神官のもとで氏子たちが脇役を演じる祭礼の儀式が受け継がれている。各組が当番で脇役を担うことになるが、副祭司役、鈎もち(かいもち)役、手長(てなが)役に分かれ、それぞれの装束を身にまとい手順どおりの神事が行われる。素人が演じるので間違いも多く、その都度神官から叱正されるが、拝殿に集結した氏子から爆笑が起こることもある。とくに、副祭司役が読み上げる御祓いの祝詞は熟練を要し、生半可でやると棒読みになったり読み間違えたりして氏子の苦笑が絶えない。
昔からの伝統をそのまま引き継いできたと思われるが、他村で執り行われているように儀式を簡略化しようという話はいまのところ起きていない。しかし、演じる役者の数が足りなくなってくれば氏子組の編成替えや、さらには簡略化へ向かうことが求められる。神事のあとは直会での共食が行われ酒が振舞われるが、昨今はめっきり酒の量が少なくなってきた。健康管理の浸透もあるが氏子の高齢化が影響していることを考えるとき、祭礼を継続させる難しさが浮かび上がってくる。
いずれにしても若い世代が増えないことにはむらの運営に支障をきたすことは明らかであるが、それが容易ではない現実を考えるとき新たな仕掛けを打ち出す必要に迫られる。すなわち、高齢化社会におけるむらの機能維持を存続させる手法を意味する。それが、ボランタリー社会の中で述べた新「村八分理論」であり救済の論理である。その方向なくして限界集落の再生はないと考える。

11) 日根むらでの伝統的な行事や慣習を拾い上げて、これからの日根自治区のあり方を模索しようとする、所謂温故知新の精神が高齢化率50%を超えた日根むらの暗夜行路を照らす鍵を握っていると考えられる。確かに昨今、日根むらが衰退の一途を辿っていることは隠しようがないが、だからと言ってこのまま何もせず、歴史の必然とばかりに悠長に構えているわけにはいかない。
日根むらが最盛期だった頃の話を持ち出しても、かくのごとく高齢化が進み若い人が少なくなると何を言っても無駄と撥ねつけられそうであるが、その通りかもしれないと頷いてばかりはおれない。確かに過去に回帰することはできないけれど先人の苦労とその偉業を思うとき、いずれの時代であれ困難な境遇を乗り越えてきたに相違ないはずであり、今の我々とさほど状況は変わっていないと構えれば、そこから何かを生み出すことができるかもしれない。
そんな趣旨でこのテーマを掲げて、古きを訊ねているわけである。そこで、今回は日根むらで毎年行われている伊勢講を取り上げることにした。伊勢講は、お伊勢さんにお参りする人のために講を開き、そこで旅銀を出し合って当人に行ってもらうが、いずれ順番がくれば自分がお伊勢さんにお参りすることができるという信頼のもとで行われる頼母子講である。現在は車で簡単に日帰りができるし、旅銀は皆から集めなくても自分らのお金でやっていけるようになり、講の意味はなくなっているが、それでも名前だけはそのまま使っている。
現在では昔のような悠長な旅はしなくなり、お参りを済ませたあと女郎屋でドンチャン騒ぎをするようなこともなくなって、おかげ横丁で伊勢うどんを食べ、赤福餅を買って帰るぐらいの味気ないコースになってしまったが、それでもお伊勢参りは伝統行事として続けられている。日根むらでは3班による当番制で3年に一度その役が回ってくるが、そろそろ飽きが来る頃で、そのためにいろいろな仕掛けが各班の創意工夫により実施されている。
日根むらでは毎年1月の第2日曜日に伊勢講が開かれ新年会をかねて行われるが、その年のお参り計画が担当幹事らによって発表される。毎年、お伊勢さん詣では飽き足らない人のために伊勢神宮参拝を外したり、ある年には秋葉神社への参詣に変えたりしている。また、最近ではバスをチャーターして全員に参加を呼びかけたりしているが、高齢化も手伝って出不精の人が多く、人数を募ることも一苦労である。何か思い切った案を出さないとこのままではバスツアーも自然消滅してしまいそうな気配である。
昔の伊勢講の知恵に習って、講を立ててそこで集めたお金で長期の旅をのんびり楽しんでもらう方法が思いつく。これは私がインドネシア・カリマンタン島で集落調査をしていた時に経験したある村の頼母子講(アリサン)を参照している。かれらは生活に必要な耐久消費財を自力で買うことができないため講によって集められた金で買うことを楽しみにしているが、このことが村の絆を強くする動機になっていることは間違いない。
しかし、今の日本の日根むらで、頼母子講の話を区会に上程しても廃案になることは必死である。そこで、すべてが日根むらの存続に繋がる包括的な方策の一環として持ち出すことができれば一考に値する提案となりうる可能性も出てくるのではないだろうか。いずれにしても日根むらの再生は前途多難である。