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いつものパン屋さん

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「蛇の足」と書いて「いらんこと」



 帰宅すると、夫がいた。
 少し曇りがちだったが、ぱらぱらと降り出した様だった。
 ベランダから、雨の匂いが湿気とともに進入してきたのを、ぴったりと遮断して、夫が彼女に気づいた。
「おう。おかえり」
「あんぱん、食べる?」
 おもむろに、彼女が尋ねた。
「ああ、この前言ってた、あんぱんか?」
「そう。買ってきちゃった」
 返事も聞かずに、彼女は台所で湯を沸かしている。取り込んだ洗濯物を、居間のソファの上に無造作に投げて、夫が、カウンターテーブルに載せられたパンの袋を、指で引っ掛けて覗いた。
「・・・・・・、多くないか?」
「だってさー!」
 急にテンションの上がった声が、突き刺さるように聞こえてきた。
 この声がでたら、「オワリ」なのだ。
 同じ町内会の、南向き角地の一軒家を指して、嫌みったらしく「奥様」と呼んだ。
「でね、福島、って聞いただけで、ぜーんぶ、パン、返しちゃって、『また、くるわ~』だって。二度と来るな! って思ったね」
「で、仇はとって来たのか?」
「そうよ!」
 手に取ったアンパンを、ふんわり二つに割って睨み付けた。親の敵でも見るような目つきに、夫が、あんぱんは悪くないぞ。と、思いながら、マグカップに挽かれたコーヒー豆を乗せる。
「福島の人が、放射能を生成して、撒き散らしてるって思ってるのかしら。なんで、パンが悪いのよ」
「偏見、ってやつだな」
「だよね! そうだよね! 自分がそんな風にされたら、一番に文句言う人なのよ。この間も・・・・・・」
 なぜか、定期清掃の話を持ち出し、いつの間にか、パン屋のことはどうでもよくなったらしい。
 彼女のリズミカルな一連の意見陳述をBGMに、湯の沸くけたたましい笛の音に腰を上げて、コーヒー豆に細く回しかける。ふわりふわりと、立ち上る香ばしい薫り。
 夫が半分になったあんぱんの片割れを摘んだ。
「お。このあんこ、甘さ控えめでうまいな」
「ほんと?」
 ようやく、自分が何をしようとしていたか思い出したらしい。
 改めて、袋を全開にして、中の湿気を飛ばす。
「ちょっと、多かったかな?」
 少し、後悔もこめて、夫を見やった。
「週末、来るんだろ?」
「ああ・・・・・・」
 隣町に嫁いでいった娘が週末に三歳の孫を連れてくるといっていたのを思い出す。それには、少なそうだ。
「また、買えばいい」
「そうね」
 クリームパンを焼いておく。と、いってくれた青年を思った。

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 彼女は、内弁慶だった。という、余談です。

作品名:いつものパン屋さん 作家名:紅絹