中年スマッシュ 君に届け
その日の夜、バドミントンの練習が終わると僕は弘美を呼び止めた。
「もう、すぐに帰らなくちゃいけないの?」
「えっ、いや1時間くらいなら大丈夫だけど」
「そこの居酒屋で、ビールでも飲んでいかない?」
「あたしお酒は無理。コーヒーくらいならいいけど」
僕はビールをあきらめて居酒屋の隣の喫茶店に彼女と入ることにした。薄暗い店内のテーブル席に座った。
「なんだか怪しいね、この店」僕は緊張をほぐすためおどけて見せた。
「先輩、変わりませんね。あの頃のままみたいですね」
「イヤイヤ、もうずいぶんおじさんだよ。ほらお腹も出てるし」
「でも、髪形も、顔もそう変わってないですよ」
「そうかな・・・ふけた気がするんだけど」
「そのまま少年が大人になったようです、先輩は」
「なんだか、うれしいな。僕は君を忘れていたのにごめんね」僕は弘美の言葉に喜んだ。
「弘美ちゃんは結婚してるの?」あっさり聞いてみた。
「今、離婚協議中・・・」
「えっ、何か聞いてまずかったかな・・・」
「ううん、いいですよ。なかなか人生うまく行かないですね・・・先輩は?」
「僕はもう1回離婚の経験あり。そっちのほうでも先輩だ」僕は笑って、明るくしようと努めた。
「離婚ってパワーいりますよね・・・」
「そう、結婚の3倍はパワーがいると言われてるけど、僕は10倍くらい必要だった」
「えっ、そんなに・・・仲がよかったたんでしょうね、それくらい」
「仲がよかったら離婚なんてしないよ。その反対。もうドロドロだった」
「うちもドロドロです」と言って弘美は小さく笑った。
「離婚ってそんなもんだよ。離婚にきれいごとはないみたい。結婚の理由は好きだからと一つしかないけど、離婚の理由は数え切れないほど出てくる」僕は言った。
「うちの場合はDVなんです。じつは、今は逃げてるの・・・」弘美が寂しく言った。
まさか、そんな事態を抱えてるとは思ってなかったので言葉に詰まった。沈黙した。
「そうか・・・大変だね。で、離婚は出来そうなの?」と本気で心配しながら言った。
「裁判所からもうすぐ通達が来る予定。なんとかなりそうだけど・・・」
「だけど・・・?」
「追いかけて来やしないかと心配なの」
「ふ~ん、それで今は大丈夫なの?」
「彼の実家はここから遠い町だし居所を知らない筈だから大丈夫と思うけど、不安になる時がある」
「子供は?」
「もう成人してるし。海外に行ってる」
「へぇ~そうなんだ・・・DVか・・・きついよね・・・」
明るく努めようとしたのに、泣かせてしまった。
バドミントンで爽快に動き回る弘美とは別人だった。僕は声をかけてやりたかったが出来ないでいた。それから話題をそらそうと取りとめのない話しをしたのだけれど雰囲気は重く沈んでいた。30分ほど話しをして喫茶店を出て別れた。
帰ってから弘美のことが気になった。弘美の人生をつなげてみた。
空白の時間の弘美は悲しい顔をしていた。バドミントンの時とは対照的な暗い顔をした弘美が浮かんでは消えた。
その翌週、彼女はバドミントンをお休みしていた。
シャトルを打つ手にも力が入らない。なんだか気が抜けた練習日だった。
弘美を待っている僕がいた。あの力強いスマッシュを浴びたかった。シャトルでの会話をしたかった。戦っている時は、しゃべらなくても心が通う瞬間であり、ひとときのつきあいのような気がした。
久しく恋愛してないことに僕自身気がついた。
この会いたい、待ち遠しい感情は恋愛のような気がした。
次の週、彼女は練習に来ていた。誰よりも早く来て体育館にモップをかけていた。
心なしか明るい表情だった。離婚が決まったのだろうか。
何も聞かなかった。
皆が来る前に、またいつものように二人でシャトルを黙々打ち合った。
シャトルが行ったり来たりする度、彼女から無言の言葉をもらってるようだ。
僕が彼女に向けて大きくクリアしたシャトルは放物線を描いて、彼女の元に届く。
彼女もまた、大きくクリアして僕のところに届けと言わんばかりに、きっちりとシャトルを落としてくる。
何度か力がこもったクリアを繰り返すと、彼女の心の声が聞こえた気がした。
「もう、大丈夫だよ」ってシャトルに込めた想いが僕に届いた気がした。
僕は彼女の元気なシャトルをまた「よかったね、君にも届け」とばかり打ち返した。
僕達の気持ちを乗せたシャトルは二人の間を何回も行ったり来たりした。
僕は今度の日曜日、彼女をデートに誘ってみようと思った。
体育館に二人のシャトルを打ち合う音がリズム良く響く。そして僕は思い出した。
卒業式の日にもらったラブレターとピッグに貼り付けられた羽の一部分を・・・。
(完)
作品名:中年スマッシュ 君に届け 作家名:海野ごはん