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みやこたまち
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アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏

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7.旅館の二人(実景)



 温泉は野天であった。秘湯ブームとかでわざわざ露天を野天に改造したのだそうだ。線路の末端からバスに乗り道の末端まで揺られてきた先に、カラオケ完備の旅館があっては趣もなかろう。といって、山小屋丸出しでは、これだけの長旅をして損をしたと思うに違いない。旅行者というのはそういう身勝手なものである。だから、この風呂の改造は成功しているといって良いだろう。もっとも、湯は沸かし湯で、厳密には温泉ではない。谷川の水をくみ上げてボイラーで沸かしているのだ。宿から川沿いに少し歩くと、わらぶきの脱衣所が男女別にある。湯船は一つだが、真ん中を萱垣で仕切ってある。湯殿は石組みだ。このあたりは露天だった名残りだろう。せせらぎと風にそよぐ雑木の音と、流れ入る湯の音。明かりはぼんやりと灯る電球がいくつかあるだけで、まあ細かいことを言わなければ、よい風呂であった。男と女とは、別段申し合わせることもなく、この風呂へ別々に入り、別々に出た。
 女が戻ると男はすでにビールを手酌で飲んでいる。食事の支度が出来ていて、二人は差し向かいに座った。「待っててくれたんだ」と女は髪をタオルで巻きなおしながら言う。「いや、俺もまだ戻ったばかりでね」と、男は答えてビールを飲む。「私ももらっていいかしら」「もちろん」上気した体に冷たいビールは最高だ。二人はめいめい、注ぎ、好きに飲む。「いい風呂だったね」「そうね。星がきれいだったし」「星が見えた?」「見えた。他にだれもいなくてね。静か過ぎて怖いくらいだったけど、きれいだった」「食事はこんなもんかな」川魚、山菜のてんぷら、固形燃料の上の鍋にはうどんが入っている。「ま、いいんじゃない。こんな山の中だもの」「俺、刺身食えないから、ちょうどいい」川魚を頭から食べる。女は美しく箸を使って川魚を解体する。「好き嫌いは無いの」そういえば、互いはまだ名前も知らない。しかし、名前を知るというのは、それほど初歩的なコミュニケーションなのだろうか。

 茶碗蒸しとネーブルを食べ終えて、茶を飲んでいる。女は食後「じゃ、温泉にいってくる」と出かけていった。そういうものか、と男は思い煙草を吸っていると、仲居がきて膳を下げ、「床をのべましょう」と言い、テキパキと二組の布団を敷いた。白いリネンで簡単にくるまれたそば殻のマクラが二つ並んでいるのをみると、何か妙になまなましいものを感じ、ふっと窓ぎわの板廊下へ出る。月の無いくらい夜が折り重なるようにざわめく木々のむこうに、裸電球のぼんやりとした明かりが滲んでいる。せせらぎがやけに耳の近くに聞こえてくる。「賑わっていますかここは」男は、床をのべた後もなにやかやと押入れをごそごそやっている仲居が映りこむサッシに向かってそういった。「は、はあ。最近は秘湯ブームとかで、こんな山奥にも大勢お見えになります」仲居は押入れの中で窮屈に半身を折り曲げて慣れた風に答える。「で、今夜はどのくらい泊まっているんです」男は煙草をもみ消して、電球のにじみを睨みながら尋ねる。「はぁ。今夜はお客様たちだけでございますね。こういうところは、平日にはなかなかお客様はお見えになりませんし、今は、山もあまり良い季節ではないんです」仲居は押入れから出て、男の方へ歩み寄ってきた。男は、仲居に1000円札を渡し、「ロビーに新聞はあるかね」と聴いた。仲居は1000円札ではあきらかに不満そうだったが、何も無いよりはマシだという顔で「へいへい」と頭を下げた。男は仲居に「ごくろうさま」といって、部屋を出た。
 
 元来あまり反省をしない男であった。反省というのは当たっていない。過去を振りかえらない、というのは大げさだ。とにかく内省というものをしない男であった。目的をもって動くのを下劣だと考え、それでも人が動くにはなんらかの欲求によるしかなく、欲求にしたがっている以上そこには目的が存在してしまうという事実に嫌気がさして、仏頂面をするほどのこともないが、欲求をたえず更改することで、目的そのものをずらし続ける術を身につけた。それはすなわち、内面を失くすことに尽きる。もともと内面なんてものはないのだよ、という事実を事実として受け入れるのに必要な知識を手にしてからは、独り言いわなくなり、夢もみなくなった。同時に、世界が全くの上滑りなものに感じられるようになった。つまり、世界とは人間が内面に仮構することで、体得できるものであると分かった。分かったが、しかし、それは男のいる場所とは別の場所での出来事でしかなかった。男が世界を感じる唯一の瞬間は、金銭が出て行く時である。金銭の出て行き、財布が軽くなる事は、肉体をこの世界に繋ぎとめておく綱が細くなることに他ならず、男はそれを、命の長さとして感じとることができた。が、それは恐ろしいことではなかった。なぜならば、男には、この世界に感じる未練のようなものはなかったからである。つい先だってまでは、恋人の存在が、彼を現世にとどめおいたものだったが、もはやそれは無く、実家の家族にかんする義理はとうになく、最も最近まで、彼を現世につなぎとめておいたものは、未来に関する漠然とした期待感だけだったのだが、内面をなくした男に、期待も無くなった。そういう点で男は動物のように生きていて、ただ、生きているだけだったといえる。

 なりゆきに任せていけるところまでいってみるのも悪くは無い。木々のざわめきが濃淡となって月の明かりを暈している。どこからか届くわずかな白熱灯の切れ端が、女を中心とした波紋の揺らぎにもてあそばれている。悪くない。と女は思った。全く、悪くない。長くて、しなやかなものが、木々を縫って走っていった。今ではもう、自分がなぜここでこうして温泉に浸かっているのかなど、どうでも良いことだった。家ではそろそろ夫が戻る頃だ。でももうそんなことも関係がなくなったのだ。なめらかな湯は、夜を溶かし込み黒々と湯船を満たしていたが、掬ってみると、無色透明だった。ヒタヒタと、湯を頬につける。私には別に、不満は何もなかったのに。女は、岩風呂の縁に持たれて、ゆったりと目を閉じた。かすかに川の流れが聞こえてきた。
 夜の川で砂金を掬うには熟練が必要だ。女はそんな言葉を思い、首筋をぞくりと震わせる。流れる川面に映る月光を何よりも愛していた。そんな風景は大抵は橋を渡る時に見下ろせるのだった。橋を渡るとマンションがあって、そこにはピンクと水色のファブリックでくるまれた、暖かな部屋があったのだ。私の部屋。そこには、小さいながらも、きちんとした楽しさや、凛とした清潔さがあった。夫はそうした規律のようなものに、全く関心を払わなかった。やめろ、とさえ言ってくれなかった。ああ、この人はこの部屋を作り上げている細やかな物達を顧みる心を持っていない人だったんだ。なぜ、今更そんな事を思い、その思いに縛られ、苦しめられ、耐えられなくなってしまったのか、分からない。川を浚っていると指先にまつわりつく長い長い黒髪。夫はその髪を全く何の感情も動かさないまま、つまみとって捨てるのだ。たとえ、その髪の先に、私がからめとられていたとしても……