アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏
いつの間にか男が俺の靴に額を押し付けている。当然俺は男の眉間にトゥーキックをかまし、茶筒ごと持ち帰った。どこで使えるんだよこんな金。と思いながら神社を出て、とりあえずタバコ屋でタバコを買ってみた。さすがに5万円札では大きすぎるので、400円玉でマイルドセブンを買ってみた。100円の釣りがきた。悪くない。じつに悪くない気分で、俺は微妙な勾配が交じり合った路地へ、体をねじ込んでいった。
「市がはねた。神社はいつものように寂びれた。何かを買ったものは、これまでよりも肉の匂いが強くなり、何かを売り払ったものは、少し背が伸びた。全てを譲り渡した男の影はきわめて薄くなり、呼吸は浅くなった。正しさを求めなければならないと刷り込まれた人々は、結局のところ、死を直視することはできない。生とは執着ではない。と示すことは怠惰なのだと、揶揄された。つまり私が伝えたいのは、こういう生命を生きのびさせてくれないこの世界の寂しさなのだ。不器用な者たちが額をつきあわせ、このどうしようもない世界を生きぬくのに必要な知恵や道具を融通しあうことこそが、この市の意義だった。だが、もうそんなものは、誰にも求められてはいないのだと判った。私はまたここではないどこかで市を立てよう」
ブルーシートをかぶって地べたを這いずり回っていた男は、そんな事をぶつぶつとつぶやきながら、120円玉を探していた。神社のはずれにある錆びた崖の階段上にあるヤクルトの自動販売機で、マミーの500ミリリットルブリックパックを買うためだったが、その望みも途絶えたらしく、数分間ブルーシートをかぶってむせび泣いていた。男は近いうちに川へ入るだろう。新天地を信じて。
おかみさんは、若い男を買ったのか、それとも買われたのか。知らないうちに境内から消えていた。私は、住み込む先をなくして結局、家で猫の世話をする日々にもどらなければならないのか。と考えながら、黄色いサリーの男から、辛くないキーマカレーには干しぶどうをいれるべきか否かについてレクチャーされていた。銅鍋には打刻があって、それはヒンドゥの教えにのっとったヨーガの真髄を絵解きした文様なのだといわれていたが、『大特価やすいいよお!!!』というボール紙の謳い文句がイカ物っぽく、逆にそれがインドチックに感じられたりもしたので、4000円を720円にまけてもらって手に入れていた。
取り立てて失踪する気も無く家を出たわりに所持金にはゆとりがあり、肌身離さず持っていたことから結局、気まぐれ旅行の一日となっただけのことではあったけれど。
さて、天気は良いが、風が大変に強い。ブルーシート、あっちこっちでバタバタして、重いものも軽いものも、みんな転げ舞う賑やかな参道を後にして、駅方面へではなく、鉄錆びた護岸の階段をカンカンと下りていく。河原がある。私が知る限りではこれは多摩川上流のはずで、川向こうは武蔵五日市になるはずだ。上流にも下流にもそれぞれ青と赤の巨大な橋が霞んで見えるなと思っていると、空の船がタプタプと流れていった。誰か知った人が船板に突っ伏していたようにも見えたけれども、さしあたり私はこの川をわたるつもりも、下るつもりもなかった。 完
作品名:アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏 作家名:みやこたまち