消えゆく
黒い羽は最後の一翼となってしまった。
もう飛ぶこともできないそれを背に、黒い魔王は地面に寝転がっていた。
後悔はない。これが自分の望んだことだったから。
だがもうこれ以上何もできないと思うと、少し虚しい。
許せない事があったから、それにほんの少し対抗してやろうと思って始めた事だった。
自分がこうなっていく事はわかりきっていて、それでもやめなかったのは笑顔があったからだ。
『ねえ魔王さま、捨てないでくれてありがとう』
『魔王さま、だいすきだよ』
そう言って手を握って、笑ってくれたのは片羽の双子。
握ってくれた手はとても温かかった。
ありがとうと言う言葉を聞いた。そして彼らは消えずに済んだ。
だから何も、後悔などしていない。
今こうして、自分が消えてしまいそうになっていてもだ。
目を閉じて、空を見上げた。
世界が違っていても、どの世界にも空はある。
青い青い空には太陽があって、見上げる空はまぶしい。
会えなくなるのはちょっと寂しいなと思った。
それでも、満足して目を閉じていれば、いきなり暗くなって声が聞こえた。
「ひどい姿だね」
「……あ? なんでここに居ンだよ?」
それはここにはいない筈の声で、眉を寄せながら目を開けば、そこには見間違いようのない姿がある。
黒い魔王を裏返したような、真っ白な―――神と呼ばれるもの。
「居るから居るんだよ」
にこりと笑う白い彼に言われて、屁理屈だと答えて起き上がる。
黒い羽が一番だけのその姿はもうぼろぼろで、残っている羽も崩れて消えてしまいそうだった。
「あんた門、通ったのか」
それは禁忌とされている事のはずだ。
『あちら』の者と、『こちら』の者が、世界を繋ぐ門を通り抜ける事は禁じられている。世界が違うふたつの理を崩してしまうからと言われているが、それが正しい理由なのかどうかはわからない。
「うん」
その禁忌を、一番犯してはならない者が犯した。
しかもそれを笑顔で肯定している。
どんな意図があってそうしたのか全くわからず、片翼の魔王は唖然として白い神を見上げた。
宙に浮く神の背中には八対の白い羽。昔は同じぶんだけ魔王の背中にも黒いそれがあった。けれど全部誰かに渡してしまったから、今はもう残っていない。
そして魔王の中には最後のひとしずくしか残っていない。それももうすぐ果てて消える。
「……だから言ったのに。身がもたなくなるって」
「うるせぇ。俺が好きでやったんだから文句言われる筋合いはない」
「文句は言わないよ」
「は? じゃあなんだよ。わざわざこっちに来て、笑いにでもきたか?」
多分、この世界の中でこの魔王だけが、この神と交流があった。
門の向こう、その景色を見る時には必ずこの男の姿があって、あの扉越しによく話をしていた。
大抵はどうでもいい話をして背中を向けて、決して仲がいい訳ではなかったし、元々敵対する種族同士だからそう思ったのに、白い彼はただ静かに首を振る。
「違うよ、ちょっと頼みごとをしに来たんだ」
にこっと笑ったその顔は、いつも通りのはずなのに何かが違う。
「……なんだ」
ほんの少しの違和感。それに気がつきながらも無視して問うた。
そしてその答えで違和感のひっかき傷が大きく広がって裂けていく。
「私を喰らって欲しい」
「……は!?」
笑顔で何を言う、と言おうとしてできなかった。
その表情はもう笑顔などではなく、恐ろしいぐらいに真剣で、その真剣さに言葉を失ってしまう。
「知っているかな? 十六翼の魔王が私の世界に来ようとしている」
「……そ、れは」
「禁忌を犯してでも、世界が欲しいのだろうね。まあその禁忌は停戦のためだったから犯したところで、少し痛いぐらいで特に罰はないけれど」
だからこいつはいとも簡単に門を潜り抜けたという事か。
黒い魔王が生まれる以前に起きた、神と魔王のぶつかり合いは、人間の住まう場所でも時折伝説と語り継がれているほどに大きなものだった。
そうしてできたのが世界の繋ぎ目であり、門である『あれ』だと言うのは知っていたのだけれど、それが停戦の証であるなどとは考えもしなかった。
「でももう、私には彼らを止める力は残っていない」
「……嘘つけ。それだけの羽抱えて、何が残ってないだ」
背中にある羽は力の証だ。その力が大きければ大きいほどその数は増えていく。
最大で八対。そしてそこから上の強さは色で決まる。
こちら側に住まう者は、強ければ強いほど黒く。そしてあちら側に住まう者は強ければ強いほど白く。
そして今、黒い魔王の目の前に居る、彼の背中には、染みひとつない純白の、八対。それは誰よりも強い力の証だ。
だが彼は首を振る。今まで見たことのない、悔いるような顔で。
「もう私は器でしかなくなってしまった。力の使い方がわからない。使えない力には、意味などない。このままでいけば力だけが動き出してしまう」
「……それで、俺に喰えってのか」
「ああ、そうだよ」
キミにとって悪い話ではないはずだと、彼は言った。
消えかかった体。力を取り戻せば、また存在を維持する事ができる。
「こちらでもあちらでも同じことだけれど、対極である存在の力を取り込めば、倍になる。私の力を喰えば、その力は誰よりも強くなれる」
「冗談。その前に押し潰されて消えるのがオチだ」
あんたの全部なんて、俺に抱えられるものじゃない。そう言って首を振って断れば、じゃあ半分、と彼は言う。
「半分でいい。抱えられるだけの力を喰らって、私の最後の願いをかなえて欲しい」
「……何が、望みだ」
それ次第では、叶えてやらない事もない。
消えかかっているその姿で、不敵に笑いながら答える。その笑みにつられたように彼も笑って、そして言った。
「私の力を使って、全部を奪い取れ。今居る十六翼を越えて頂点に立って、これから起ころうとしている全てを未然に防いでほしい」
「……しくじったらどうする気だ」
俺が十六翼に勝てるかどうかなんてその時にならなければわからないぞ。
そう告げれば、目の前の白い彼は不敵に笑う。
「私の力を甘く見てもらっては困る。これでも総てを統べるものであったのだからね。しくじる事はない」
そう言えばこんな奴だったかと思い出して口元に笑みをうかべ、だったらと黒い魔王は続けた。
「……じゃあ俺が裏切ってあっちに攻め込んだらどうするんだ」
あまり興味もないことだったが、気が変わらないとも言えない。
悪戯を思いついた時のような感覚で告げた言葉は、だが彼には気にするほどの事でもなかったようだ。
「キミはそんな事しないだろう?」
「……それはどうかね」
「しないよ。私はそれを知ってる」
「……ソウデスカ」
なんだか不愉快だ。
対極で、にらみ合いをしている存在であるはずの彼が、そんな風に疑う事なく真っ直ぐに自分を信じる事が。
そしてその信頼の通り、自分には攻め入る気など全くないのが。
「……そうだね、そんなに気になるのならこうしようか」
「あ?」
ふっと笑った白い神は、自分の胸に手を当てて目を閉じる。
風もないのにふわりと浮き上がる神。淡く光るその両手。
もう飛ぶこともできないそれを背に、黒い魔王は地面に寝転がっていた。
後悔はない。これが自分の望んだことだったから。
だがもうこれ以上何もできないと思うと、少し虚しい。
許せない事があったから、それにほんの少し対抗してやろうと思って始めた事だった。
自分がこうなっていく事はわかりきっていて、それでもやめなかったのは笑顔があったからだ。
『ねえ魔王さま、捨てないでくれてありがとう』
『魔王さま、だいすきだよ』
そう言って手を握って、笑ってくれたのは片羽の双子。
握ってくれた手はとても温かかった。
ありがとうと言う言葉を聞いた。そして彼らは消えずに済んだ。
だから何も、後悔などしていない。
今こうして、自分が消えてしまいそうになっていてもだ。
目を閉じて、空を見上げた。
世界が違っていても、どの世界にも空はある。
青い青い空には太陽があって、見上げる空はまぶしい。
会えなくなるのはちょっと寂しいなと思った。
それでも、満足して目を閉じていれば、いきなり暗くなって声が聞こえた。
「ひどい姿だね」
「……あ? なんでここに居ンだよ?」
それはここにはいない筈の声で、眉を寄せながら目を開けば、そこには見間違いようのない姿がある。
黒い魔王を裏返したような、真っ白な―――神と呼ばれるもの。
「居るから居るんだよ」
にこりと笑う白い彼に言われて、屁理屈だと答えて起き上がる。
黒い羽が一番だけのその姿はもうぼろぼろで、残っている羽も崩れて消えてしまいそうだった。
「あんた門、通ったのか」
それは禁忌とされている事のはずだ。
『あちら』の者と、『こちら』の者が、世界を繋ぐ門を通り抜ける事は禁じられている。世界が違うふたつの理を崩してしまうからと言われているが、それが正しい理由なのかどうかはわからない。
「うん」
その禁忌を、一番犯してはならない者が犯した。
しかもそれを笑顔で肯定している。
どんな意図があってそうしたのか全くわからず、片翼の魔王は唖然として白い神を見上げた。
宙に浮く神の背中には八対の白い羽。昔は同じぶんだけ魔王の背中にも黒いそれがあった。けれど全部誰かに渡してしまったから、今はもう残っていない。
そして魔王の中には最後のひとしずくしか残っていない。それももうすぐ果てて消える。
「……だから言ったのに。身がもたなくなるって」
「うるせぇ。俺が好きでやったんだから文句言われる筋合いはない」
「文句は言わないよ」
「は? じゃあなんだよ。わざわざこっちに来て、笑いにでもきたか?」
多分、この世界の中でこの魔王だけが、この神と交流があった。
門の向こう、その景色を見る時には必ずこの男の姿があって、あの扉越しによく話をしていた。
大抵はどうでもいい話をして背中を向けて、決して仲がいい訳ではなかったし、元々敵対する種族同士だからそう思ったのに、白い彼はただ静かに首を振る。
「違うよ、ちょっと頼みごとをしに来たんだ」
にこっと笑ったその顔は、いつも通りのはずなのに何かが違う。
「……なんだ」
ほんの少しの違和感。それに気がつきながらも無視して問うた。
そしてその答えで違和感のひっかき傷が大きく広がって裂けていく。
「私を喰らって欲しい」
「……は!?」
笑顔で何を言う、と言おうとしてできなかった。
その表情はもう笑顔などではなく、恐ろしいぐらいに真剣で、その真剣さに言葉を失ってしまう。
「知っているかな? 十六翼の魔王が私の世界に来ようとしている」
「……そ、れは」
「禁忌を犯してでも、世界が欲しいのだろうね。まあその禁忌は停戦のためだったから犯したところで、少し痛いぐらいで特に罰はないけれど」
だからこいつはいとも簡単に門を潜り抜けたという事か。
黒い魔王が生まれる以前に起きた、神と魔王のぶつかり合いは、人間の住まう場所でも時折伝説と語り継がれているほどに大きなものだった。
そうしてできたのが世界の繋ぎ目であり、門である『あれ』だと言うのは知っていたのだけれど、それが停戦の証であるなどとは考えもしなかった。
「でももう、私には彼らを止める力は残っていない」
「……嘘つけ。それだけの羽抱えて、何が残ってないだ」
背中にある羽は力の証だ。その力が大きければ大きいほどその数は増えていく。
最大で八対。そしてそこから上の強さは色で決まる。
こちら側に住まう者は、強ければ強いほど黒く。そしてあちら側に住まう者は強ければ強いほど白く。
そして今、黒い魔王の目の前に居る、彼の背中には、染みひとつない純白の、八対。それは誰よりも強い力の証だ。
だが彼は首を振る。今まで見たことのない、悔いるような顔で。
「もう私は器でしかなくなってしまった。力の使い方がわからない。使えない力には、意味などない。このままでいけば力だけが動き出してしまう」
「……それで、俺に喰えってのか」
「ああ、そうだよ」
キミにとって悪い話ではないはずだと、彼は言った。
消えかかった体。力を取り戻せば、また存在を維持する事ができる。
「こちらでもあちらでも同じことだけれど、対極である存在の力を取り込めば、倍になる。私の力を喰えば、その力は誰よりも強くなれる」
「冗談。その前に押し潰されて消えるのがオチだ」
あんたの全部なんて、俺に抱えられるものじゃない。そう言って首を振って断れば、じゃあ半分、と彼は言う。
「半分でいい。抱えられるだけの力を喰らって、私の最後の願いをかなえて欲しい」
「……何が、望みだ」
それ次第では、叶えてやらない事もない。
消えかかっているその姿で、不敵に笑いながら答える。その笑みにつられたように彼も笑って、そして言った。
「私の力を使って、全部を奪い取れ。今居る十六翼を越えて頂点に立って、これから起ころうとしている全てを未然に防いでほしい」
「……しくじったらどうする気だ」
俺が十六翼に勝てるかどうかなんてその時にならなければわからないぞ。
そう告げれば、目の前の白い彼は不敵に笑う。
「私の力を甘く見てもらっては困る。これでも総てを統べるものであったのだからね。しくじる事はない」
そう言えばこんな奴だったかと思い出して口元に笑みをうかべ、だったらと黒い魔王は続けた。
「……じゃあ俺が裏切ってあっちに攻め込んだらどうするんだ」
あまり興味もないことだったが、気が変わらないとも言えない。
悪戯を思いついた時のような感覚で告げた言葉は、だが彼には気にするほどの事でもなかったようだ。
「キミはそんな事しないだろう?」
「……それはどうかね」
「しないよ。私はそれを知ってる」
「……ソウデスカ」
なんだか不愉快だ。
対極で、にらみ合いをしている存在であるはずの彼が、そんな風に疑う事なく真っ直ぐに自分を信じる事が。
そしてその信頼の通り、自分には攻め入る気など全くないのが。
「……そうだね、そんなに気になるのならこうしようか」
「あ?」
ふっと笑った白い神は、自分の胸に手を当てて目を閉じる。
風もないのにふわりと浮き上がる神。淡く光るその両手。