愛を抱いて 27
54. 香織の失策
翌、13日は金曜日だった。
夜、私は柳沢と部屋でテレビを視ていた。
ふと、窓の外で、女の声がした様に思った。
「今、何か声が聴こえなかった…?」
私は柳沢に尋ねてみた。
「別に…。」
柳沢は画面から眼を離さずに云った。
(『鉄兵君…。』)
また微かに、女の声が聴こえた。
「ほら…。」
どうやら声は私を呼んでいる様だった。
「鉄兵君…。」
非常に弱々しい声だった。
「あれ?
本当だ…。」
柳沢は宙に視線を移し、耳をそばだてながら云った。
私はカーテンを開け、窓硝子を横へ引いた。
「鉄兵君…。」
もう一度、声がした。
下を視ると、1階の短い屋根の先に女の顔があった。
世樹子だった。
「何だ…。」
私は笑った。
下へ降りて行くと、世樹子が哀しそうな顔をして立っていた。
「どうしたんだい?
そんな顔をして…。」
私は云った。
「どうもしないわよ…。」
彼女は小さく笑った。
「そう…?
なぜ、まっすぐ上がって来なかったの?」
「…鉄兵君が何度目で気づいてくれるかな、と思って。」
「ふぅん…。
それで、難聴テストの結果はどうだい?」
「…うん。
まあまあね…。」
「とにかく、そんな処にいつまでも立ってないで、部屋へ上がりなよ。」
「ええ…、ありがとう…。」
世樹子は玄関の中へ入りかけて、横を視た。
「誰か、いるの?」
そんな気配がして、私は訊いた。
「そうなの…。」
そう云ってから、彼女は「さあ、入りましょう。」と、後ろに声をかけた。
玄関の陰から、香織が現れた。
「今晩は…。」
はにかみながら、香織は云った。
部屋へ入ってから世樹子が語った処によると、香織は何とかもう一度私とやり直したいと云い、世樹子はぜひそうすべきだ自分も応援すると云って、その夜、私の処へ二人で交渉に来たのだった。
私は急に不機嫌を装った。
「考え直す予定は、ないかしら…?」
香織は云った。
「私に直す処があるのなら、全て改める様努力するわ…。」
「私からも、お願いします…。」
世樹子が云った。
「そんな冗談を云うために、君達はわざわざやって来たのかい?」
私は口を開いた。
「冗談ではないわ。」
香織はそれまで浮かべていた薄い笑みを、表情から消して云った。
そして彼女の顔は少し蒼ざめて視えた。
「じゃあ、俺を侮辱しに来たんだ。」
「侮辱なんてしてないじゃない…。」
香織は眉の間に、哀しみを漂わせて云った。
世樹子は黙っていた。
柳沢も黙ったまま、テレビに視線を向けていた。
「あなたを侮辱してる様に聴こえたのなら、謝るわ…。
今すぐ元に戻して欲しいなんて、云ってるのじゃないのよ。
ただ、あなたに、ほんのわずかでもその予定があるのなら、私は自分の駄目な処を直して、少しでもあなたに相応しい女になる様、努力するわ。
でも、予定は未定なんだから、ずっと永遠に戻れなくても、あなたは何も気にする必要ないのよ…。」
私は相変わらず、不機嫌な表情をしていた。
「何か云って頂戴…。」
「…君はいったい、本気でそんな事云っているのか?
とても正気とは思えない。
君の云った事は、その姿は、もはや恋愛ではない。
俺は、二人の姿をそんな風にしようと思って云い出したのでは勿論ないし、君が云う様にしなければ俺は人と付き合えないのなら、俺は片輪だ…。」
「私達は二度と戻れないって事ね…?」
「…ああ。」
「…どうしても駄目かしら?」
「駄目だ…。」
私は云い放った。
「そう…。」
香織は渇いた表情をして立ち上がった。
「御免なさい…。
馬鹿げた事を云って…。
…それじゃあ、…失礼するわ。」
そう云うと香織は、さっさと部屋を出て行った。
世樹子も彼女の後を追って行き、部屋の中は元通り私と柳沢の2人になった。
「簡単には切れてくれそうにない様子だな…。」
柳沢は云った。
「そうかもな…。
でも、今夜の事は、半分冷やかしのつもりだろう…。」
私はリモコンを押して、チャンネルを替えながら云った。
「冷やかしなんかでは、ないと思うぜ。
彼女は真剣さ…。
きっとこれからも、手を変え品を変え、この部屋へやって来ると思うな。」
「そりゃ来るだろう。
俺は彼女に絶交を云い渡した覚えはない。
彼女も俺も、ファミリーの一員である事に変わりはない…。」
柳沢は香織の行動に腹を立てている様だったが、彼女達が帰った後も、それらしい事は口にしなかった。
11月15日、その日曜の昼過ぎ、私はまだ夢の中を浅く彷徨っていた。
醒め際に、ノックの音が何度も聴こえた。
「…はい…。
開いてます…。」
私はドアの方へゆっくり顔を向けながら云った。
「まあ…、まだ寝てたの?」
ドアを開けたのは、香織だった。
「そんな厭な顔しないでよ。
恥知らずな女だと思われても仕方ないけど…、今日は違うのよ。」
「いや…、まだボーッとしてるんだ…。」
続いて世樹子が入って来た。
「鉄兵君、寝てる場合じゃなくてよ。
遂に、憧れの人との御対面よ。」
「何なんだ…、いったい…?」
私は眼を擦りながら、弱々しく云った。
「ぜひ逢いたいって云ってたでしょ?
木暮さん…。」
「え…?
あの…、例の?」
「ええ。」
「今、いるの…?」
「そうよ。
鉄兵君のために、連れて来てあげたの…。」
以前、柳沢やヒロシから、伊勢崎女子高校には「木暮篤子」という名の絶世の美女がいた話を、私は何度も聴かされていた。
「久保田と仲良いから、鉄兵もその内、お眼にかかれるぜ。」 と柳沢は云った。
木暮篤子は現在、前橋の予備校に通っているとの事だった。
「…それで、どこを狙ってるの?」
私は彼女に訊いた。
彼女はコタツの中に膝と両手を入れたまま、恥かしそうに下を向いた。
「彼女は私達と違って、とっても頭良いのよ。」
世樹子が云った。
「私達ってねぇ、あなた…。」
香織は笑いながら云った。
「ぜひ、東京に来給え。」
私は云った。
「受かって、ぜひそうしたいわ…。」
彼女は云った。
「来年は楽しみね、鉄兵君。」
「うん。
篤子ちゃん、君は必ず合格する。
でも、東京は物騒な処だから、俺が色々と面倒を見てあげよう。
安心して頼って来給え。」
「なお、物騒じゃないの…。」
木暮篤子は長いサラッとした髪の、上品な顔立ちをした女だった。
中肉、中背で、どこかお嬢さんといった雰囲気を持っていた。
長い時間、私の部屋で談笑した後、我々は外へ出て、中野駅の方向へ歩いた。
「いいわねぇ…。
私、断然、都会暮らしに憧れちゃったわ。
今は毎日が本当に辛いの…。」
私と彼女は、香織と世樹子から少し離れて前を歩いた。
「今日中に帰っちゃうのか…。
もう1日ぐらいゆっくりして行けば良いのに。」
「そうしたいわよ。
でも、明日からまた予備校に行かなきゃだから。
来年東京へ出て来れるためにも…。」