愛を抱いて 26
そして俺にとって、そういう君では、駄目なんだ。
だから…。」
「元に戻すしかないってわけ…?」
「…うん。」
「解ったわ。
そうしましょう…。」
そう云って、突然香織は、大きな涙をポロポロ零し始めた。
私は煙草をくわえかけて、また止めた。
「御免なさい…。」
微かな声でそう云った後、彼女は口に手を当てて、懸命に声を殺そうとした。
しかし彼女の瞳には、後から後から涙が溢れて、それは彼女の頬を流れて行った。
彼女は片手を突いて、小さく呻きながら泣いた。
レコードが「冬が来る前に」を唄い始めた。
彼女は、いつまでも泣いていた。
また、歯が痛み始めていた。
私は身体を横にした。
「御免なさいね…。」
自分のハンカチを出して、目もとと頬に当てながら香織は云った。
「愕かせちゃったかしらね…。
私って、泣くと思わなかったでしょ…?
いつも生意気な事ばかり云っときながら、呆れたでしょうね…。」
「いや、また痛くなって来て…。」
彼女がこんな時、泣くという事を、私は4月の終わりから知っていた。
「薬、飲む?
あまり続けて飲まない方が良いんだけど…。」
「効かなくなると困るから、もう少し我慢するよ。
悪いが、そのハンカチを貸してくれ…。」
私は彼女の手から濡れたハンカチを受け取ると、自分の頬に当てた。
プレーヤーのリプレイ・ボタンが押された。
何度も云い出そうと思いながら、なぜその日まで、香織に別れを告げる事ができなかったのか、私は考えていた。
彼女に愛を告白された、二人で池袋へ行ったあの夜、私は自分としては珍しく簡単に、彼女に「好きだ。」と云ってしまった。
東京に来たばかりで舞い上がっていた様にも思えるが、その事がずっと、私には引っ掛かっていた。
しかし、その時やっと、二人の間を言葉は流れた。
初めて、真実が通ったのだった。
再び「冬が来る前に」が始まった。
歯痛は何とか治まった。
「じゃあ、私、帰るわね…。」
香織は云った。
「…うん。
…ありがとう。」
立ち上がりかけてから、香織は云い忘れてた事の様に云った。
「ねえ…、最後に、もう一度、キスして…。」
私は半身を起こすと、彼女を抱き寄せた。
長い口付けが終わった時、彼女はまた瞳を濡らし始めた。
「じゃあ…、さようなら…。」
そう云って、彼女は部屋を出て行った。
ハンカチは彼女に返さなかった。
私は久しぶりに、煙草に火を点けた。
── 震える肩を抱けば
それだけ辛くなるから
後ろめたさを胸に
この秋の日は 一人きり…
ああ… ひと時の幸せに
流されるままに 生きて行く…
ああ… 燃ゆる想いは消えて
変わらぬ愛は もう見えない
あなたの 嘘のない優しさに
返す言葉もなく…
ああ… ひと時の幸せに
流されるままに 生きて行く
この冬が来る前に… ──
11月12日、私は朝から体育の授業に出席した。
1限目の「スポーツ」が終わり、私と西沢は硬式用のテニス・コートを出て、「基礎体育」の行われるグラウンドの方へ歩いて行った。
軟式用のテニス・コートから淳一と柴山が出て来て、我々に声をかけた。
「淳一、話がある…。」
グラウンドに着いてから、私は云った。
私と淳一はクラスの集団から少し離れた処へ移動した。
「お前、俺に云い忘れてる事があるだろう。」
「…?」
「理恵ちゃんは、少し元気がなかったみたいだ…。」
「理恵ちゃん…?
ああ…。」
「彼女と何があった?」
「何って…、ホテルへ行った…。」
「ふむ…。
そうか…。」
「ただ…。
朝に…。」
ベッドの上で理恵と迎えた朝に、淳一は彼女を泣かせてしまった。
一粒の涙もなくクリーンに女と手を切る事は、我々にとって、朝飯のかなり前であった。
にも拘わらず、淳一は何の策も講じなかった。
「これっ限、俺達は2度と逢わない事にしよう。」
彼はわざわざ、そう云った。
まるで女の涙を誘うかの様に、そして彼自信に罪を科すかの様に。
なぜか愛を知る程に、我々は不器用になって行く様であった。
〈五三、冬が来る前に〉
※引用:オフコース「めぐる季節に」「冬が来る前に」