シロノノロイ
シロノノロイ
「そろそろ行こうか」
「うん」
合掌を終えると、父は名残惜しそうにゆっくりと立ち上がった。それに併せて玉砂利がざりざりと音を立てる。少し墓石に触れながら立ち上がると、線香から燻る煙が、真白の身体に静かに絡まった。
「さて。じゃあ、母さんにお別れ言いなさい」
「うん。お母さん、またね」
控えめに手を振ると、まだきれいな『杉村』の文字も優しげに見つめてくるような感じがする。
墓地を後にし、父に手を引かれながら、農道へと出る。
寒かった冬はとっくに終わりを告げて、すっかりと暖かくなってきた。左の方にある畑の土からは春の匂いが立ち昇り、モンシロチョウがヒラヒラと飛んで来て、真白の鼻先を掠めた。
「きゃっ」
「真白!危ない!」
真白が驚いて思わずのけぞると、横から父が受け止めた。真白は「いたた…」と立ち上がった。
「真白、大丈夫かい?」
「う、うん。ありがと、お父さん」
真白は照れたように笑った。
「それにしても、どうしてこんなところで…。ハハッ」
「あっ!もぅ笑わないでよぅ!」
こんどこそ、真白は真っ赤な顔になって、両手を振り上げた。
「いやいや、ごめんごめん。フフ…」
農道を左に曲がると、村の中を流れる川に架かる橋が見えてきた。
その橋を渡ると、すぐに祖母の家の前に出た。その道は桜街道になっており、七分咲きに咲いている。父は「本当にここも、あの時と変わらんなぁ…」と懐かしそうな顔をしていたが、不意に時計を見ると、残念そうな顔をこちらへ向けた。その表情を見た真白はその表情の意味を悟って、俯いた。
「じゃあ、お父さん仕事だから…」
「うん…」
父は、俯く真白の目線に合わせるように片膝をついた。
「真白、おばあちゃんの言うこと、よく聞くんだぞ」
「うん…」
なおも、真白は視線を地に落として返事をする。父は真白の頭にゆっくりと手を乗せる。
「お父さんな、このまま真白がおばあちゃんの家で暮らすのもいいと思っているんだ」
「…」
「お父さんは仕事でかまってやれなかったし転校ばかりで友達もできなかっただろう?」
大きくて暖かな手が、真白の頭をなだめるように撫でる。
「おばあちゃんも喜ぶし、そうしなさい」
「…うん。わかった」
未だ不服ながらも、頷いた。父は、「しばらく会えないけど、元気でな」と言って真白の頭をポンポン、と叩いた。
「夏には会いに来るからな」
「うん。またね」
顔を上げて遠慮がちに微笑んだ。
「またな」と何度も言いながら去って行く父に、真白はその姿が消えるまで手を小さく振り続けた。
本当なら見えなくなっていく背中を、今すぐにでも追いかけたかったが…。
「少し散歩でもして帰ろうかな…」
腕にはめていた子供用の腕時計を見やる。去年の誕生日に父が買ってくれたものだ。桜の花びらのような薄桃色が可愛らしくてお気に入りだった。本当は人形が欲しかったのだが、時計をつけた真白を見た父が心底嬉しそうにしていたので黙っておいた。
お昼ご飯をほっぽって遊びに行っていたとなれば、祖母に叱られてしまうだろうが、幸い昼食まではまだ時間がある。
真白は重々しい心持ちを振り切るように、足を大きく踏み出した。
桜街道を十分ほど歩くと、一際大きな桜の木があった。並木とは違い、巨木の花びらは既に満開になっていた。
祖母が言うにはこの桜は『オバケ桜』というものらしい。由来としては真白が聞いた限り二つある。まず一つは、まだ雪深い時期に蕾が芽吹き始め、村中のどの桜よりも長く咲き続けるため。
そして二つ目は(これは学校で聞いた話なのだが)、『あの桜の木の下では、怪現象が度々起こる』ため、というものだった。花見に来た客の酒瓶が揺れ出したり、かぶっていた帽子が風もないのに飛んだりするそうだ。昔は少なからず花見客も訪れていたようだが、そういうことが起こるようになってから、ぱったりと途絶えてしまったらしい。小学校では、それに尾ひれがついて『桜の木の下には人が埋まっていてその人が養分となっている』とか、『その人の呪いで怪現象が起こる』など、噂されている。
どこにでもあるような他愛ない噂話だが、真白も恐怖心から、行かないようにしていた。
しかし、目の前の情景は真白が想像していたものとは、対照的なものだった。
「わぁっ…」
あまりの美しさに真白は息をのんだ。
降り落ちる花びらたちは、風に弄ばれるようにユラユラと揺れる。落ちた花弁が重なり合って、木の周囲は薄桃色の絨毯と化していた。
去年の秋に、都市部からお母さんの実家のこの村に越してきた真白にとって、この年は村で過ごす初めての春だった。当然、並木の桜も見ていたし、それなりに綺麗だとは思っていたが、ここの美しさにはかなわなかった。
真白はもっと近くで桜を見たくなり、思わず走り寄って、幹に触れた。
不意に強い風が吹いて真白は身を庇った。桜色の絨毯は吹き飛び、桜の雨が散る。
その時、真白のポケットから中途半端に入っていたハンカチが、先ほどまで桜色に覆われていた若草の上に落ちた。
「あっ、ハンカチが」
慌てて拾おうとすると、その手をすり抜けるようにして、ハンカチはひらりと舞い上がった。それだけでなく、真白から少し離れたところまで飛んでいくと、まるで舞い落ちる桜の花びらのようにフラリと揺れた。しばらく同じ動きを繰り返すと、また、はためきながらながら飛んでいく。
「まっ、まって!」
その様子に唖然としていた真白は、ようやく我に返って追いかけると、一瞬、ビクリと跳ねるとその場にパサリと落ちた。
「つかまえた!」
今度は逃すまいとしていた真白の手が勢いよく押さえつけた。それ以上ハンカチは動き出そうとはしなかった。
「うぅ…。汚れちゃったよ…」
これもお気に入りだったのにな…。
そう思いつつ強く押しつけて押しつけてしまったためついた雑草の端切れと土を怪訝な顔で払い落とした。
(風で飛んだのかな…)
しかし、どうしても風だけで動いたようには思えなかった。
(変なの)
とたんにさっきまで忘れていた噂話を思い出し怖くなってきた。真白は思わず身震いした。なんだか、視線を感じるような気がする。
「気のせいだよね…。…もう帰ろ」
ハンカチの汚れを早くぬぐいたいのと、恐怖心が真白の足を急がせた。
「うぅ…。悪いことしちゃったかなぁ…」
ハルは桜の幹に寄りかかりながら、先ほどの女の子のことを考えて溜め息をついた。落ちたハンカチを取ってあげただけならまだしも、それを使って自分がいるということを示せないかと思ってしまったこと。そして、あろうことかそれを落としてしまったことを後悔していた。
「これじゃ、『ほんまつてんとう』じゃない…」
遙か昔に誰かから聞いた言葉を呟いて、もう一度、はぁ…、溜め息をつく。桜と同じ色に染まった髪と着物の袖が、風で振れた。
「それにしても、また気付いてもらえなかったなあ…」
俯きながらそう呟くのはこれで何度目だろうか。
「そろそろ行こうか」
「うん」
合掌を終えると、父は名残惜しそうにゆっくりと立ち上がった。それに併せて玉砂利がざりざりと音を立てる。少し墓石に触れながら立ち上がると、線香から燻る煙が、真白の身体に静かに絡まった。
「さて。じゃあ、母さんにお別れ言いなさい」
「うん。お母さん、またね」
控えめに手を振ると、まだきれいな『杉村』の文字も優しげに見つめてくるような感じがする。
墓地を後にし、父に手を引かれながら、農道へと出る。
寒かった冬はとっくに終わりを告げて、すっかりと暖かくなってきた。左の方にある畑の土からは春の匂いが立ち昇り、モンシロチョウがヒラヒラと飛んで来て、真白の鼻先を掠めた。
「きゃっ」
「真白!危ない!」
真白が驚いて思わずのけぞると、横から父が受け止めた。真白は「いたた…」と立ち上がった。
「真白、大丈夫かい?」
「う、うん。ありがと、お父さん」
真白は照れたように笑った。
「それにしても、どうしてこんなところで…。ハハッ」
「あっ!もぅ笑わないでよぅ!」
こんどこそ、真白は真っ赤な顔になって、両手を振り上げた。
「いやいや、ごめんごめん。フフ…」
農道を左に曲がると、村の中を流れる川に架かる橋が見えてきた。
その橋を渡ると、すぐに祖母の家の前に出た。その道は桜街道になっており、七分咲きに咲いている。父は「本当にここも、あの時と変わらんなぁ…」と懐かしそうな顔をしていたが、不意に時計を見ると、残念そうな顔をこちらへ向けた。その表情を見た真白はその表情の意味を悟って、俯いた。
「じゃあ、お父さん仕事だから…」
「うん…」
父は、俯く真白の目線に合わせるように片膝をついた。
「真白、おばあちゃんの言うこと、よく聞くんだぞ」
「うん…」
なおも、真白は視線を地に落として返事をする。父は真白の頭にゆっくりと手を乗せる。
「お父さんな、このまま真白がおばあちゃんの家で暮らすのもいいと思っているんだ」
「…」
「お父さんは仕事でかまってやれなかったし転校ばかりで友達もできなかっただろう?」
大きくて暖かな手が、真白の頭をなだめるように撫でる。
「おばあちゃんも喜ぶし、そうしなさい」
「…うん。わかった」
未だ不服ながらも、頷いた。父は、「しばらく会えないけど、元気でな」と言って真白の頭をポンポン、と叩いた。
「夏には会いに来るからな」
「うん。またね」
顔を上げて遠慮がちに微笑んだ。
「またな」と何度も言いながら去って行く父に、真白はその姿が消えるまで手を小さく振り続けた。
本当なら見えなくなっていく背中を、今すぐにでも追いかけたかったが…。
「少し散歩でもして帰ろうかな…」
腕にはめていた子供用の腕時計を見やる。去年の誕生日に父が買ってくれたものだ。桜の花びらのような薄桃色が可愛らしくてお気に入りだった。本当は人形が欲しかったのだが、時計をつけた真白を見た父が心底嬉しそうにしていたので黙っておいた。
お昼ご飯をほっぽって遊びに行っていたとなれば、祖母に叱られてしまうだろうが、幸い昼食まではまだ時間がある。
真白は重々しい心持ちを振り切るように、足を大きく踏み出した。
桜街道を十分ほど歩くと、一際大きな桜の木があった。並木とは違い、巨木の花びらは既に満開になっていた。
祖母が言うにはこの桜は『オバケ桜』というものらしい。由来としては真白が聞いた限り二つある。まず一つは、まだ雪深い時期に蕾が芽吹き始め、村中のどの桜よりも長く咲き続けるため。
そして二つ目は(これは学校で聞いた話なのだが)、『あの桜の木の下では、怪現象が度々起こる』ため、というものだった。花見に来た客の酒瓶が揺れ出したり、かぶっていた帽子が風もないのに飛んだりするそうだ。昔は少なからず花見客も訪れていたようだが、そういうことが起こるようになってから、ぱったりと途絶えてしまったらしい。小学校では、それに尾ひれがついて『桜の木の下には人が埋まっていてその人が養分となっている』とか、『その人の呪いで怪現象が起こる』など、噂されている。
どこにでもあるような他愛ない噂話だが、真白も恐怖心から、行かないようにしていた。
しかし、目の前の情景は真白が想像していたものとは、対照的なものだった。
「わぁっ…」
あまりの美しさに真白は息をのんだ。
降り落ちる花びらたちは、風に弄ばれるようにユラユラと揺れる。落ちた花弁が重なり合って、木の周囲は薄桃色の絨毯と化していた。
去年の秋に、都市部からお母さんの実家のこの村に越してきた真白にとって、この年は村で過ごす初めての春だった。当然、並木の桜も見ていたし、それなりに綺麗だとは思っていたが、ここの美しさにはかなわなかった。
真白はもっと近くで桜を見たくなり、思わず走り寄って、幹に触れた。
不意に強い風が吹いて真白は身を庇った。桜色の絨毯は吹き飛び、桜の雨が散る。
その時、真白のポケットから中途半端に入っていたハンカチが、先ほどまで桜色に覆われていた若草の上に落ちた。
「あっ、ハンカチが」
慌てて拾おうとすると、その手をすり抜けるようにして、ハンカチはひらりと舞い上がった。それだけでなく、真白から少し離れたところまで飛んでいくと、まるで舞い落ちる桜の花びらのようにフラリと揺れた。しばらく同じ動きを繰り返すと、また、はためきながらながら飛んでいく。
「まっ、まって!」
その様子に唖然としていた真白は、ようやく我に返って追いかけると、一瞬、ビクリと跳ねるとその場にパサリと落ちた。
「つかまえた!」
今度は逃すまいとしていた真白の手が勢いよく押さえつけた。それ以上ハンカチは動き出そうとはしなかった。
「うぅ…。汚れちゃったよ…」
これもお気に入りだったのにな…。
そう思いつつ強く押しつけて押しつけてしまったためついた雑草の端切れと土を怪訝な顔で払い落とした。
(風で飛んだのかな…)
しかし、どうしても風だけで動いたようには思えなかった。
(変なの)
とたんにさっきまで忘れていた噂話を思い出し怖くなってきた。真白は思わず身震いした。なんだか、視線を感じるような気がする。
「気のせいだよね…。…もう帰ろ」
ハンカチの汚れを早くぬぐいたいのと、恐怖心が真白の足を急がせた。
「うぅ…。悪いことしちゃったかなぁ…」
ハルは桜の幹に寄りかかりながら、先ほどの女の子のことを考えて溜め息をついた。落ちたハンカチを取ってあげただけならまだしも、それを使って自分がいるということを示せないかと思ってしまったこと。そして、あろうことかそれを落としてしまったことを後悔していた。
「これじゃ、『ほんまつてんとう』じゃない…」
遙か昔に誰かから聞いた言葉を呟いて、もう一度、はぁ…、溜め息をつく。桜と同じ色に染まった髪と着物の袖が、風で振れた。
「それにしても、また気付いてもらえなかったなあ…」
俯きながらそう呟くのはこれで何度目だろうか。