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愛を抱いて 22

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43. Gの響き


 「和音の展開というのは、トニックに始まってトニックに終わる…。
コード進行の基本的な形は、C→F→G→Cなんだ。」
私は云った。
「旋律も、主音に始まり、4度へ行き、そして5度が出てきて、主音に戻り終わるのさ。
それが基本だ。」
みゆきは静かに私の話を聴いていた。
「だからGというのは、終わりを予感させる音なんだ。
君はピアノを弾くから知ってると思うけど、クラシックにおいては、CからFへ行き、色々あって、やがてGが出て来るんだ。
そして『あぁ、終わるな…。』と思うと、本当に終わるんだ。」
11月になったばかりの日曜日、私はみゆきと、公園通りの喫茶店にいた。
「だけど現代音楽、ポップスとかニューミュージックと呼ばれるものとかのコード進行を見ると、よくCから、いきなりGへ行ってるんだ。
終わりを予告するはずのGが、Fの前に、最初に登場してしまうんだ。
勿論、曲はそのまま終わってしまうわけではなく、Fへ進んだり色々展開してから、Cへ戻って終わる。」
みゆきは興味深そうに、コーヒー・カップに手を添えたまま、耳を傾けていた。
「この事は、クラシックとポップスの違いの1つであると、俺は考えてる。
クラシックでは、C→G→Cの、Gの前で色々なコードに展開し、ポップスではGの後で展開するんだ。」
「…ポップスでは、最後にCへ帰る前に、もうGは出て来ないの?」
「いや、やはり終わる前に、Gはちゃんと登場する。
ただきっと、クラシックの好きな人がポップスを聴いた場合、Gが出て来た処で『あれ、もう終わりかな?』っていう風に感じると思うんだ。
でも、曲は終わらない…。
君なんかは、どうだい?」
「私、ピアノは弾くけど、クラシックばかり聴いてるわけではないから…。」
「Gは終わりを告げる音なんだ…。
だけど、実は俺も、C→Gっていう5度への和音展開が一番好きなんだ。
GはCから一番離れた音だからね…。
5度はトニックから一番遠い処にある音だから、5度への展開が美しく聴こえるのは、当然なのかも知れない。
でも、それは、心の底に終わりを感じさせるせいなのだ、という事を皆、気づかないのさ…。」
我々は喫茶店を出ると、パルコの方へゆっくり歩いて行った。
私はもう何も喋らなかった。
彼女も黙っていた。
私は、以前香織の妹が云った、「二人の間を沈黙の時が流れても、それに抵抗を感じなくなれば、男女の関係は本物だ。」という事を、想い出していた。
ただ、私にはもう、彼女に語るべき事が、何もなかった。

 夜になり、渋谷駅の東横線の自動切符売場に二人はいた。
改札の手前で彼女は振り返った。
「電話、待ってるわ…。
じゃあ、またね…。」
いつもの様に彼女は、そう云った。
「うん、それじゃ、また…。」
私もそう云って、二人は別れた。
そして、私と彼女は二度と逢う事はなかった。

 翌、11月2日の夕刻、私は総武線の電車に乗っていた。
心の中で何度も、同じ言葉を繰り返し呟いた。
新宿で、淳一と西沢が電車を降りて行った後も、私はドアのそばの座席に腰掛け、心で繰り返していた。
(さあ、清算だ…。)

 中野駅の改札を出た処で、ふと前を視ると、人込みの中に見覚えのある後姿があった。
「フー子。」
私は呼びかけた。
「…あら、鉄兵。
今、帰り?」
「ああ。」
我々は並んで歩き始めた。
「だけど、初めてファミリーの誰かに逢ったな。
同じ駅を利用してて、今まで偶然に逢う事が一度もなかったなんて、考えてみれば不思議だ…。」
「私もそうよ。
偶然逢ったの、鉄兵が初めてだわ。」
「もしかして俺達の間には、運命の赤い糸でもあるのかな…?」
「そうかもね…。
私ちょうど、鉄兵の事考えてて、逢いたいと思ってた処だったのよ。」
「え…、本当?」
「本当よ。
嬉しい…?」
「うん。」
「じゃあ、サテンへでも寄って行かない? 
時間あるかしら…?」
「あるある、あり余ってる…。」
我々は、サンモール街の「珈琲館」へ入った。

 珈琲がテーブルに運ばれて来てから、フー子は調子を変えて云った。
「あのね…。」
「お、いよいよ本題だな。」
「あら、解る?」
「君が愛を打ち明けるために、俺を誘ったんではない事ぐらい解るさ。
話は何だい?」
「ありがとう、話しやすくしてくれて…。
でも話というのは、あなたの事よ。」
「俺の…?」
「ええ。
おととい、土曜の夜、世樹子が私の処に泊まって行ったのよ。
聴いたわ、あなた達の事…。
それで…。」
「二人でいたのに、どうして三栄荘に来なかったの?」
「あなたも柳沢君も、土曜はどうせ遅かったんでしょ? 
あなたは合コンだったし…。」
「よく御存じで…。」
「世樹子に聴いたのよ。
…1つだけ、聴かせて欲しいの。
…あなた、世樹子が好き?」
私はコーヒー・カップの縁に口を付けた。
「私は、香織には何も云わないつもりよ。
彼女の前で、少し気が重いだろうけど…。
私よりも、世樹子はずっと辛いはずだわ。」
私はカップを皿に戻すと、煙草をくわえ、火を点けた。
そして、世樹子がなぜフー子に打ち明けたか、という事について考えていた。
どちらかと言うと、それは予想し得なかった事だった。
「世樹子は俺の事を何て云ってた…?」
「そんな事、私に訊かなくても、あなたは充分知ってるでしょ?」
「いや、充分かどうか、自信がない…。」
「嘘云っても、駄目よ。」
「本当さ…。」
「彼女の気持ちは、あなたが思ってる通りよ。
いえ、きっとそれ以上でしょう…。
だから、本当の処を聴かせて頂戴…。」
「…俺は、彼女の夢を叶えてやりたいだけさ。」
「そう…。」
フー子は初めて自分の珈琲を一口飲んだ。
「…1つだけ、私から云わせてもらって良いかしら?」
「ああ、どうぞ…。」
「あなたは…、悪い男よ。」

 (さあ、清算だ…。)
気がつくと、私は心で、そう繰り返し呟いていた。
香織が受けた劇団のオーディションの発表があり、彼女は合格した。
そして私は、彼女に告げるべき時がやって来たと思っていた。
しかし、そう思ってすぐは、その事は現実化しなかった。

 11月4日、三栄荘では香織の合格祝いが催された。
部屋の常連6人に、ノブが参加して、パーティーは始まった。
乾杯の後、全員から「おめでとう」の言葉を浴びせられ、香織は珍しく真剣に照れた表情で笑っていた。
そして彼女は云った。
「どうもありがとう…。
でも私だけじゃなく、世樹子も祝ってあげなくちゃ。
世樹子は同じ日に英検を受けて、合格したのよ。」
「え、本当…?」
ヒロシが云った。
「何だ世樹子、合格してたの?」
柳沢が云った。
「あら、あなた、するはずないって思ってた様な云い方ね?」
「だって、3級だろ?」
「俺、自信ねぇや…。」
「前の晩、サン・プラに泊まったっていうのに、よく合格できたもんだ…。」
「そんな、奇蹟みたいに云って、ちょっと失礼じゃない?」
フー子が云った。
作品名:愛を抱いて 22 作家名:ゆうとの