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吉田 幸弘
吉田 幸弘
novelistID. 50746
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天秤(バランス)

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<プロローグ>現在

俺、幸弘は1973年大阪生まれ

現在40歳無職

可愛い子ども、長男4歳、二男4か月、

奇麗で、スタイルの良い嫁37歳なつみ

これが、現在の家族構成

正直、職探しに明け暮れ収入もろくに無く

やっとの思いで作ったクレジットカードも未払いが2か月続いている

こんな、生活の為嫁の両親からも愛想尽かされている状態だ。

最近、死を覚悟する瞬間すらある。

しかし、しぬ覚悟あるなら何でもできるはず!

いつも、そう言い聞かせながら生活している。

私のこんな最悪な人生は今に始まった訳ではない。

これには、“愛”と“金”にマヒした人生の始まりがあったからだ。

人間は、全てバランスを無視して生きる事はできない。


<第1章 神の子誕生?>

私は、某宗教団体の幹部の息子として生を受ける。

両親は合同結婚式の第一号として12組の中の1組。

私の前に、長女として姉がいる彼女らは金沢で生まれる。私同様、宗教団体の教祖より名前を

授かることとなる。

姉は団体の中では初めて生まれた女の子であり、それも双子だ!名前はふざけているのか、い

ないのかわからないが、日本で初めて生まれた女の子ということで、日本をとり、“日子(にちこ)””本子(もとこ)”と名づけられた。

私は、幸弘(本名ではありません)と名づけられた。

私の生まれは、大阪天王寺で当初鶴橋に教会がありそこで生まれたと聞いている。

勿論、生まれた時の記憶はない。

当時、1973年(昭和48年は)ぎりぎりベビーブームであっただりょうか?

大阪では、2歳下の弟が生まれた時には東京で暮らしていたため1年~2年位の話だと思う。

出産時は、3330gで生まれ母親は待合室での出産だったと聞いている。

当時の、写真を見る限り顔を大きく(現在も)母親が、高麗人参エキスを飲んでいたため、

かなり体格は良かったように思える。

非常に、手間のかからない子供だったようだ(母親いわく)何でこうなってしまったの?と言われることが多い(現在の私をみて)

大阪で、私の世話をしてくれた人は当時教会に献身(教会にすべてを捧げた人)していた19歳の女性だった。この人物は、私が5年生のころ再度出会う事となる。


ここで、姉たちの話をするならば親が神の仕事(宗教活動)をするために、ほとんど子供の面倒すら見れない為、別々の家庭(協会のメンバー)にあづけられていたということだ。

そのせいか分らないが、一卵性の姉たちの性格は正直余りにていない。

そして、幼少期の私は舞台を東京に移すこととなる。

東京での生活からは、私も記憶があるためたどりながら綴ってゆこうと思う。

私たち、合同結婚式を受けた親から生まれた子供たちを2世と呼び、神の子として特別な存在として扱われていた。


東京

東京での生活は私が、3歳のころだと思う。

当時住んでいた場所は渋谷の大橋であった。

その、場所はなぜか”大橋ホーム”と呼ばれていた。

大橋ホームは、私たち家族以外にもたくさんの献身者がいた。

その中で、一家族として生活をしていた。


当時の記憶は、幼稚園に通いだした事や生活の中での所どころの記憶がある。

例えば、くだらない話だがテレビでキューティーハニーが放送されていた記憶があるがその変身シーンで裸になるのをみて子供ながらに興奮していた(何だか下半身がもやもやする)記憶がある。

その他、エピソードとしては姉が毛糸のパンツをはいていた為、真似をしてくてパンツを二枚重ねてはいてみたりした。

何故か、鮮明に覚えている話だが

姉二人が、味噌汁を作って塩と砂糖を間違え砂糖を少し入れたらしいがその味噌汁が美味しいと父親が”誰が味噌汁作ったか”と聞いて非常においしかったと褒めていた記憶がある。


ここで、関係ない話だが私の持論として、人間の幼い時の記憶とは、感情の動きを記憶しているようだ。

私は幼いころからの記憶がある。周囲の人間の中でも、幼少期にいうことをきかないようなやんちゃは子供は当時の記憶がないという。

私は、幼稚園の時にもトイレで大便をするのが恥ずかしいくらいの、気にしいだった。

そんな、感情ゆたか(自分で言うのはなんだが)人間は、感情の流れを幼いころから記憶しているのだと思う。


幼稚園

私は、親の話では4月生まれの為早くから幼稚園に通っていたようだ。

その幼稚園は、当時用賀(世田谷区)にあった。

教会に、子供だけが通う幼稚園だ。

と、言っても私の姉達が1番はじめなので、私は姉と3年離れているため一緒には通えないはずなのだが、早く入っていた為多少同時期を記憶している。

その幼稚園は、年長を太陽組、年中を月組、年少を星組としていた。

教育としては、勿論教会の教理のっとった教育をしていた。

しかし、まだ初期だった為先生方も大変だっただろう。

わたしが、入った時の同期はわずか5人、幼稚園全体でも、15人の園児しかいないような

小規模の幼稚園だった。

教育も結構熱心で、バレー(クラシック)の練習や、韓国語(宗教の母体が韓国の為)の勉強

等もあった.

そんな、不思議な幼稚園を卒園し小学校へと進学するのであった。



<2章カルチャーショック(小学校)>

私は、不思議な幼稚園を卒業したころ、自宅は杉並区に移っていた。

姉が、四年生に、私は1年生となる。

身長も体格も良く1年生とは思えないくらいだ。

因みに、5年まで学年トップの伸長だった。

1年に進学すると、初めての経験ばかりする事となる。

殆どの、児童は地元の幼稚園や保育園をでているため、知っている友達が一人としていない。

それどころか、周りの人間すべてが自分より幼く見えてします。

私は、体はデカイが物静かで先生の言うことしか聞かない俗に言う優等生ぶっていた。

友達と何を話せば良いのか分らない。

笑うタイミング遊び方すらわからない。

教室では浮きまっくているのがわかる。

先生が、静かにしなさいと言わなくとも静かにし、動くなと言われなくとも微動だにしない。

たまに、先生は児童がうるさく言うことを聞かないのに、私だけ静かにし、動きもしない為

名指しで、私だけ先に帰ってもよろしいといわれる時すらあった。

しかし、これも始めのみでだんだんと周りに溶け込み同化してゆくのであった。


私生活

自宅では、親はいつも自宅にはいない。

なぜ?神様の仕事をしているからだ。

その代り、教会よりお姉さん(子供のお守係り)が、派遣されてくる。

この制度、私が小学校に入る前からそうだった。

ところが、このお姉さんが曲者で厳しいなんてものではない。

とにかく、幼いこどもたちにも容赦しないのだ。

自宅と言っても、教会の人が10人位は生活を共にしていた。


小学生とは思えないハードな生活

朝起きるとそれぞれに“責任分担”と称される担当の仕事がある。

姉二人は、朝から洗濯。当時は二層式洗濯機で外にあった為寒かっただろう。

私は、ゴミ捨て。ごみステーションは遠くにあり。人数も多かったため。かなり重いごみだった。

弟は、ゴミ集め。
作品名:天秤(バランス) 作家名:吉田 幸弘